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お雑煮につと豆腐を入れる高崎藩の会津藩とのご縁とは

今年のお正月はとうとう"つと豆腐"のお雑煮を作ってもらうことができた。
我が家のお雑煮にはずっと焼き豆腐が入っていたのだけど、何年か前にある会報誌に掲載されていたお雑煮特集で「群馬県高崎市の城下町のエリアでは、お雑煮につと豆腐なる豆腐を入れる」ということを知った。城下町エリアとは、かつて存在した高崎城にごく近い街のこと。高崎市の中心部の町には鞘とか紺谷とか銀座とかの城下町お馴染みの名前の町がそろっている。このエリアで育っていない私はつと豆腐とそのお雑煮の存在を知らなかったのだけど、そこで育った母親は知っていた。

「別においしいものじゃないけど…。焼き豆腐の方が好き」

文化はこんな風に消えていくんだなと思った。

Wikipediaによると、以下が書かれていた。

つと豆腐は、群馬県高崎市の宮元町、高砂町で雑煮用の食材として用いられる。
江戸時代に会津藩から高崎城へ献上されたものが市中に伝わったものとされる。江戸時代末期までには庶民の食材として普及していたようで、明治になって埼玉から移住して開業した豆腐屋が高崎では正月の定番食材としてつと豆腐があることを知って、さっそく作って売ったというような逸話もある。

Wikipediaより

実際は城下町よりずっと狭いエリアで食べられていたようだった。宮元町という場所は、三の丸の堀のすぐ外側。上物はほぼ跡形もない高崎城でも唯一と言っていいほど立派に残るスズラン百貨店前のお堀の付近だ。もうひとつの高砂町は北へ向かう新幹線の左側に座った時、高崎駅を出発してすぐに見えるあたり。これだけ離れたエリアだけで食べられていたということは、特定の2軒がつと豆腐を使っていただけの話かなと思った。

青が高崎城、青横のピンクが宮元町、右上の線路左のピンクが高砂町。

同じウィキペディアページの最初を読むと、そもそもつと豆腐は福島県と茨城県の郷土料理と書かれている。それが会津藩から高崎城に献上され、やがて市中に伝わりお雑煮に使われてるようになったらしい。宮元町と高砂町に会津藩ゆかりの方が住んでいたか、つと豆腐を作るお豆腐屋さんが近くにあったのか。

この話を知ってから、年末年始の帰省の折りにはつと豆腐が売っていないか探してみた。とうとう今年、よく知られたスーパーで見つけることができて狂気乱舞。残念ながら、市内のお豆腐店の物ではなく別の市で作られた物だったけど、初めてつと豆腐を目にした。

手作り感すごい。これが他の一般的なパッケージ化されたお豆腐と並んでいたら…。そうそう、あれを思い出した。パンのコーナーに突然あるサランラップで包まれたおまんじゅうやコロッケサンド。そんな感じに目立ってた。国産大豆も天然にがりも使わない、本当にお城に献上してたのかと疑う庶民感が好き。

ひっくり返してみた。つと豆腐は藁納豆の藁で包んで塩茹でした納豆らしい。端がくるんとなっていることから、普通の四角いお豆腐を作って藁で丸めたことを想像できる。こも豆腐と呼ばれるとも。

https://otakinen-museum.note.jp/n/n5ab4ea72630a?magazine_key=m821c181dc278

こもは菰と書いて、上の太田記念美術館の浮世絵の真ん中の人。藁のシートを雨避けにしている。これでお豆腐を巻いて茹でているってこと。お雑煮に使ってもらおうと喜んで持ち帰った。

母親もつと豆腐を買ってきたらしい。シワシワした形のお豆腐が雲のようでかわいい。昭和の専業主婦なのに料理上手ではないし好きでもない母親が作ったから、正しいのかはわからない。だけど、お豆腐に穴が空いているからか、普通のお豆腐よりツユの味が染み込んでいる気がする。

当時、宮元町と高砂町にどんな人が住んでいたかは図書館と歴史博物館に行くとわかりそう。お正月は閉館だろうから、今度行ってみることにする。

佐藤の切り餅、小さくなったな〜。

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