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すとらんど 1

「猫」     kamihikoki

昼食に何を食べればいいのか僕は毎日、大学で真剣に悩んでいた。学食はいつも通勤ラッシュの電車みたいに混雑していて、まず食券を買う列に並び、次に品出しの長い列に並び、さらに背中を丸めて皿にがっつく学生でごった返したテーブルが空くのをじっと待っているとあっけなく昼休みは終わってしまうのだった。僕はこの食堂を見るといつも養鶏場のブロイラーを思い出して気が滅入った。かといって学外へ出ようにも近隣のビジネス街のランチは学生にとっては値段が高いし、第一、昼休みにわざわざ大学を離れていてはそれこそ休み時間がいくらあっても足りない。そこで僕は家から食べ物を持参し、適当な場所を探して食べることにしていた。
 ある日、校舎の裏に捨てられたソファに座って家から持ってきた海苔を食べていたら、そこへ黒猫がやってきたので海苔を一枚放り投げてやると、猫は海苔を咥えてそそくさと駆け出し、一度も振り返らずに柵の植え込みの陰で忍者のように闇に溶け、姿を消しさった。猫は何処へ行ったのだろう。
 また別の日、校舎の裏のソファでキャベツを食べていると烏が可愛げもなくぴょんぴょんと跳ねて来てがさつな仕草でそこらにぴたりと止まり、黒い身体の中きらりと光る眼でこちらをじっと見た。僕がキャベツを放り投げてやると烏は背を向けてキャベツを嘴に咥え、かあかあと湿度の低い声で鳴きながら空へ上昇していった。自分が食べていたキャベツが空を何処までも飛んでいくことなんて考えたことも無かったので僕は空を見上げて興奮した。
 そうやって蟻にいかをあげたり雀に飴をあげたりしていたある日、僕がソファに腰掛けてねぎを食べていると文学部の女の子がやってきてこちらを見たのだ。僕はねぎを彼女に投げてやると彼女は優雅な体さばきでねぎをすっとかわしつつかなり怒った様子で素早くこちらへ向かって来て、そのまま間髪いれずに僕と喧嘩になった。お互いがお互いを殴るために拳を固めたままのポーズでその距離を牽制した後、わりにその女の子と仲良くなり、やがて一緒に買い物や映画に行ったりするようになった。しばらく後に僕は世間的にはこういった女性を彼女と呼ぶものなのだろうと思ったが、彼女は僕が好きないわゆる綺麗な女性というわけではなく可愛い感じだったので、僕は彼女に対して常にどこか冷静なのだった。だがまあいいか。いつもそばに女の子の話し相手がいるのは、なかなか悪くない気分がする。
 そうして大学生時代、僕はその可愛い彼女とテレビ局に遊びに行ったり、お酒を飲んでわけの分からなくなったふりをしたりして楽しんだ。タイミングを見計らって大学の近くの僕の下宿で一緒に寝てみたり、お互いが考えていることを当てっこしたりしたが、お互い半分眠りながらだったのでほとんどそれは当たらなかった。
 大学の授業を一生懸命さぼり、にもかかわらず単位は一生懸命取得し、さらに一生懸命に就活をした結果、無事に就職先も決まり、僕ら二人は大学を卒業してそれぞれ会社へ勤めることとなった。卒業後も働きながら仕事の後で二人で待ち合わせをして夜の街の底で会社について言い慣れない下手な愚痴を言い合い、ここぞという時にはもぐもぐと口づけをしたりした。彼女の唇の感触の記憶はややもするとぎこちない愚痴一辺倒になりそうな時間を、ふわふわとした愉快なものへと変化させた。
 休日にしばらく会わなかった友人たちを僕の家に集めてちょっとしたパーティをすることになった。彼女は早めに僕の家まで来て、皆に振舞う食事の下準備を手伝ってくれた。サラダのために野菜を潰し、冷凍庫の奥で眠っていた鶏肉とねぎで塩辛い炒め物を作り、店で買ってきた特売の惣菜を皿に並べ、安い酒を入れるグラスをテーブルに置くと彼女はふいに部屋を出て行った。
やがて友人たちがやってきて、ご飯を食べながらお酒を飲み騒がしく過ごした。どこで聞きつけたのか大学の教授も一緒にやってきて、濁ったワインをがぶがぶ飲んで学生時代の僕の悪口を一通り述べた。
「君は授業をさぼってもレポートを出しさえすれば良いと思っていたよね。そういう態度が全部の提出物から透けて見えていたよ。全く気に食わないやつだ」
 そうだそうだ、気に食わないぞ、と友人達が周りで囃したてた。
「あれはあれで当時の精一杯の努力の結果なんですよ。僕はあんまり難しいことを考えるのは苦手で。でも授業に本当に興味が無かったら、レポートさえ提出しなかったと思います。出来の悪いレポートのお詫びと単位のお礼に、今夜はわさび入りの麻婆豆腐を大盛りごちそうします」
 再び乾杯し、特製の麻婆豆腐を出した。辛い辛いと大騒ぎした挙句、教授の上着に料理をこぼした。教授は「弁償だ!」と高らかに叫んだがみんな無視して誰一人謝らなかった。そんな風に馬鹿騒ぎをして、やがて騒ぎ疲れた者から一人二人と帰っていった。
 僕は深夜まで誰もいなくなった部屋で一人で炭酸の抜けたビールを飲んでいたが、酔って暑くなってきたので部屋を出て夜の街をふらふらと歩いていった。街中でぴかぴか輝く街灯やタクシーの光を眺めながら友人たちの顔ぶれを思い出すとふいに大学時代が懐かしくなり、そのまま僕は大学まで歩いて行った。門は開いていたので構内に入り込んで真夜中の大学を散歩した。一人きりで誰もいない、真っ暗な大学の大通りを歩いているとあの頃の色々なことが思い出された。
 校舎裏へ行ってみると僕のお気に入りの場所だった古いソファがまだ置いてあった。満月に照らされて暗闇の中に浮かび上がったソファにはいくつか新しい傷が増えていた。近くに真新しい灰皿が置いてあるところから類推するに、今は誰かの喫煙所になっているのだろう。
(新しい傷が増えた分だけソファは古くなった……)
 そんなことを考えながら、酔っぱらった僕はここで座って煙草を吸っているであろう見知らぬ後輩の落とした単位の数を想像しながら、何年かぶりであの汚いソファにどっかりと腰をかけた。そして目を瞑ると、僕の瞼の裏に視界を埋め尽くすほどの、何千、何万、何億もの星が現れて、その沢山の色とりどりの星が様々な綺麗な音楽とともに酒の酔いにあわせて回転しはじめたので僕は段々楽しくなってきた。
 僕は目を開けて酔った頭で空を見上げた。空気はひんやりとして暑くなった身体を腕から冷やして気持ちが良かったがしかし、空では雲が月を隠したうえに一つの星も見えなかった。真っ暗な空に、闇の中に沈んだ校舎。辺りは静かで木々が風に揺れる音だけがさやさやと聞こえてくる。僕はソファで弁当を食べていた頃の自分を思い出し、それから昔そこへやってきた少女を思い出したが、ふと彼女がいつのまにか可愛い少女から綺麗なOLに変わっていたことに気がついてソファの中で思わず小さくガッツポーズをした。それにしてもあの猫はどこへ行ったんだろう……。
 僕は彼女に携帯でメールを送った。彼女から返事は無かったがしばらくすると闇の中から彼女が現れ、ちらと僕の顔を見て、ふ、と笑った後であたりを見回しながら言った。
「ここ、懐かしい」
「そうだね。皆はもう帰ったよ。みんな君に会いたがってた」
 ちょっと外へ出たい気分だったの、と彼女は言った。彼女は人並みに気まぐれなところがあるのは僕も知っていたから、気にしないで、と小さく返事をして僕はしばらく黙った。
「何か言って」
「君は綺麗になった」
ほほう、と呟いて彼女は目を細めた。
「もっと言え」
「君は本当に美しいよ。僕は君が側にいてくれるだけで世界に対して様々な希望を持つことが出来る気がする。少なくともその可能性を感じるんだ。だから今だけじゃなくずっと僕のそばにいて、もうどこにも行かないで欲しい」
 すると彼女は先刻よりもさらに目を細め、満足そうに鼻をすんすん鳴らして、得意げに顔をほんの少しふるふると揺らしながら言った。
「ねえ、わたし、どこにも行かないよ。だから手をつないで部屋に帰ろう。あとアイス買って」
「もう少し大人っぽく言ってくれ。それだと小学生みたいだ」
「ねえおにいさん、わたくしにあまーいアイスを買ってくださらない?」
 僕が心底げんなりしながら立ち上がった時、草むらから黒い猫が一匹飛び出した。その黒い塊はきらきらと輝く瞳を暗闇の中に浮かび上がらせ、かなりの勢いで大学のメインストリートを疾走していって見えなくなった。ひょっとしたらそのまま空へ駆け上がってキャベツとぶつかり、星になったのかもしれない。なあんだ、猫はどこにも行きはしなかったんだ。ずっとここにいたんだ。この調子ならきっと雀も蟻もどこかで元気にやっているに違いない。
 僕はすっかり安心して、彼女と手をつないで大学を出た。真夜中のコンビニで一個三百五十円のアイスを買い、そのままゆったり歩いて帰り、部屋で溶けかかった甘いアイスを食べ、彼女と一緒に仲良く眠って学生時代の夢を見た。

 たくさんの夢を見る性質はそれまで持っていなかったのに、私はあの頃、頻繁に悪夢を見た。
 受験生の時に発生した親の希望と自分の進路のズレは結局最後まで歩み寄りをみせず、私の選択は理解されないままに、故郷に両親を置いて逃げるようにして東京へ出て来ることになった。大学生活に対してはそれなりにというか、かなり夢を抱いていたが新幹線で東京に着いた瞬間から多すぎる人やせわしい空気といったあまりに直接的な理由で、何とも言えないフラストレーションを抱えるようになってしまった。大学の授業も実際に受けてみると課題と小テストの繰り返しで私が期待していたものとは大きく違っていた。私は新しい場所でもっともっと自由に、あちこちの垣根を越えて気楽にどこまでも歩いて、行く先の人々みんなに可愛がられる猫のように、ずうっと気ままにやりたかったのだ。
 バイトの面接を三つ立て続けに落ちて一文無しになった私は空きっ腹を抱え、いつにも増して暗い気分で昼休みの大学構内をうろついていた。私は学食のあのとてもまずい具無しカレーを食べる権利すら持っていないことを思うと惨めだった。何気なく日常を暮らしたいだけなのに、周囲は私にそれを許さない。一体私の何がいけないというのだろう、一体何が。
 人口密度の高い大学の大通りを避け、いつも耳元で何かが爆発している人みたいに神経質なぴりぴりした気持ちで校舎の裏路地を歩いていたら、何と道端に捨てられたソファの上で弁当を食べている学生がいた。そいつはこっちを見てへらへら笑いながら何か投げつけてきた。私が空中を眺めてそれがねぎであることを理解した瞬間、忘れかけていた実家での生活が一気に想起された。広い空、ゆったりとした時間の流れ、仲良しでお人よしの友達、ねぎ畑で働く父と祖父、家族のそろった食卓。母の作る鍋に入った甘いねぎから発されるほこほこした湯気を私は思い出した。ねぎを育てるのがどれだけ大変か、そして値段はいくらくらいか知っているのか、この野郎、許せない。山歩きで鍛えた体幹のばねでウエストを反らしつつねぎを避けると私はぜひとも一発そいつを殴ってやろうと思って間合いを取った。この戦い、負けるわけにはいかない。そうだ、負けるわけにはいかないけれど私はか弱い女子大生だ。しかも昼飯抜きだ。それに対し、あちら様は健康そうな男子大学生、しかもうらやましいことに弁当を食べていたらしいのである。ああうらやましい、と恨めしそうに弁当を眺めて文句を言ったところそいつは私を食堂へ連れていきカレーをおごってくれた。私は得体の知れない金属でできた学食の備え付けのスプーンでがつがつとそれを食べながら、勝ったと思った。
 それからというものそいつが何かおごってくれると言う度に色々な処へついていった。気の向くままあちらこちらの店に入って食事をしたりお酒を飲んだりするのは本当に楽しかった。払いが自分の金じゃないと思うとなお一層美味に感じるのだった。
 やがて部屋に遊びに行ったりそいつが私の部屋に遊びにくるようになりそれなりに一緒に寝たりもしたけれど、その頃から私は私自身の中に歪な考え方の癖のようなものを抱えていることに気がついた。それは私自身が私達の大学生活のことをなんとなく奇妙だと思ってしまうことだった。
 楽しいことはたくさんあったが私はそれが私たち自身にどんな意味を与えるのか本質的にはよく分からなかった。私が観察するにあいつはどれだけ長い時間一緒にいても、どれだけたくさんの夜を二人で費やしても、どこか現実的で覚めていた。感情の振れ幅に一定の制限があって枠を越えてこないような、世の中を他人事みたいに考えているような、一緒に笑っていても心のどこかで別のことを考えているような……。要するに私のことなど考えていなかったのかもしれない。そのうえ決定的だったのは私は私で心の中で、ぼんやりとしかし確実に「それでいいや」と曖昧に総括していたことである。しかし二人の関係性に起因したこの怜悧な知覚はやがて私の心の片隅に雪の結晶のようなほんの小さな氷の欠片を作った。私は最初のうちはその存在を重く受け止めなかった。受け止め方が柔軟過ぎたということかもしれない。一体人間というのは不思議なもので、時には親密になった人間についてさえ特に深く考えずともうまくやっていけるものなのだ。逆にあの時、私は何を考えるべきだったのだろう。私には分からない。就活に卒論にと忙しい毎日は過ぎた。私とそいつはたまに愚痴を言い合い、ノートも企業情報も交換し合って何とかやり過ごした。まあまあの卒論にまあまあの職場。大切なのはうまくやっていくことだ。
 しかしある時、仲間内の飲み会で食べる料理を作っている時、冷凍庫から取り出した鶏肉、その受け入れる他はないほどあっけない白さで凍り付いた、今夜も無感動な老人の目をして南極海のどこかでぷかぷかと浮かんでいるに違いない大きな鯨の、現実感の無い腹を連想させる真っ白い冷たい肉の塊をつかんだ時、その密度の高い低温が手から腕へ、それから腕から私の心臓へ直接にじわりと伝わってきたような気がした。思わず身震いをしたその瞬間、私は自分の抱えていた違和感がいよいよ氷でできた針のように心を苛んで、それが積み重なった現在では耐えきれないほどのひどい苦痛になってしまっていることに気がついた。今までお互いを利用しつつこうして私たちはなんとかうまくやってきたけれど、見て見ぬふりをしているうちに心の中の小さな氷の欠片は徐々に大きくなって、冬の要素を凝縮したような冷たい氷塊になり私を身体の芯から凍えさせようとしていたのだ。
 そうだ、私はうまくやっていかなければならない。けれどうまくやっていけないときはどうしたらいいんだろう。私を永遠に氷漬けにしようと内側から迫りくるこのおそろしく冷たい謎に対する解について私は考え始めた。柔軟な対策によって可能へと変化させることが出来るうちは、それを不可能と呼びはしない。では、今の私たちの関係のようにうまくやっていくのが「本当に」不可能になってしまったら……一体、私は、どうしたら良いのだろう。料理を作りながら私の生活のあらゆる側面、私の身体、私の歴史、私の持つ能力、私の将来性の中にその解答を必死に検索した。混乱の続く紛争の前線で空を駆ける最新型の戦闘機がレーダーで索敵するようなリアリティでもって頭の中で何度も何度もシミュレーションしたが、さっぱり何も得られなかった。そこには恐ろしいほど空虚で何もない暗闇があるだけだった。あいつならその解を知っているんだろうか……とてもそうは思えないな。
 私は頭の中で冷静に、論理的に、内省を演算しながら手だけは自律的に動かし、まるで漫画に出てくる出来損ないのクッキングマシンみたいにがちゃがちゃと料理を作った。そして炒め物を作ろうとしてねぎをまな板の上に置いたときに、そのねぎのパッケージフィルムに顔写真が付いていることに気が付いた。食材に作った人の顔写真を添付して食の安全性をアピールするマーケティングの手法である。そこに小さくプリントされていたのは思わずつられて笑ってしまうほどの満面の笑顔、元気そうな農家の家族三人……それは私の両親と兄の写真だった。
 写真の背景は実家の目の前の大きな畑だった。母はかなり派手に化粧している。こんなきつい化粧は母は普段絶対しない、宣伝のためにスタイリストでもついたのだろうか。父と兄は元気そう。写真を撮ると聞いて喜んで話に乗ったに違いない。メディアに慣れていないくせに情報を発信することは大好きな人たちだったから。ポジティブというか見栄っ張りというか……ああ、彼らは本当に楽しそうだ。 あんなに楽しい生活を、あんなに屈託のない笑顔を置いて私は出てきてしまった。彼らの明るい表情に比して内側から迫りくる氷と格闘しながらちっとも食べる気のしない料理を作るこの私、この人生に対する態度、私の全体とは何なんだろう。
 すっかり悲しくなった私は、まな板の上に静かに包丁を置くと発作的に部屋を出た。頭は熱いのに心は冷たい。家族の笑顔が眼の裏でぐるぐる巡り、私はなんだか人生そのものに悪酔いしてしまったようなたまらない気持ちで辺りを彷徨った。色んな記憶が脈絡なく浮かび上がってくる。実家を出る時の母の怒った顔、兄と父の苦笑い、進路について語り合った地元の友達、まな板の上の太ったねぎ。こんな風に家のことを一気に思い出すなんて大学一年生の時以来だ、どうかしている。家族の顔は記憶の中でにこやかだけれど、どちらかといえばそれは既に私自身そのものであって、私を温めてくれる何かではなかった。私はその何かをこんなにも強く求めているのに……何か温かいものはないだろうか。
 ああ、深夜の街をどれだけうろついても、世界は私に何も与えてくれはしなかった。本当に、私の一体何がいけないのだろう。携帯が鳴ったような気がしたがもちろん無視してどんどん歩いた。焦燥しきった私はやがて卒業した大学に戻ってきた。深夜のこの付近ではあの校舎裏のソファしか一人でゆっくりと座って休める場所が思いつかなかったのだ。そこで私は見た、休憩しようと思っていたソファを横取りしていたあいつの背中を。一体どれだけ、私にストレスを与えれば気が済むんだ。不味いものばっかり食わせやがって。そこは私の席なんだよ。別れてやる。当たり前だ。そんなことはもうずっと前から決まっていたことだ。問題はその揺るぎない結論の示し方、伝え方だ。今宵こそぶん殴ってやろう。さあ思い知れ。どこを殴られたいか。頬を思い切り平手打ちにするか、顎にヒットさせて脳を揺らしてやろうか、膝を腹に入れるか……。
 出来るだけ効率良く相手に痛みを与えるためにも、まずは相手の態勢を確認しようとして正面に回ると……私は相手の顔を見て仰天し、思わず小さい声で「あっ」と声を出したのだ。おいおい、一体どうしたんだ、そんな表情をしているなんて。さっき部屋で見たとき、お前はそんな顔をしていなかったじゃないか……その目の奥の光は一体!
 私は信じられない光景に頭をくらくらさせながらも彼の瞳をじいっと見つめた。彼の瞳に反射しているちっちゃくて輪郭のきれいな月と一緒くたになって、そこには確かに私に対する敬意が、意味が、今夜、街中を彷徨って記憶の裏の裏まで内省しながら自分の内にも外にも故郷にも注意を向けつつ強く希求した熱が……見えた……のかな。少なくともその熱の欠片、兆し、可能性そういったものが確かに感じられたような気がした!なぜかは分からないけれどそう感じた……ような。
 不確かな抽象は言葉でもってその具体を確認されなくてはいられない。そこで私はあまりの驚きに息を呑みながら、注意深く相手に命令を下してひとことふたこと愛の言葉を吐かせてみれば、彼の瞳の奥の熱はひらりと彼の舌先に移り、その発声器官の微細な動きでそのまま空気の振動へと変換され、やがて耳を通り抜けて私の中に入り情報として解釈されると同時に脳内に反響して全身に行き渡り、ついに心臓へ到達して内側から少しずつ私を温め始めた。こうなればしめたもの、この一定の熱量を持った私なら、一時はこの身を侵食しようとしていた冷たい氷も体温で融かした上で飲み込んで、今や私が生き伸びるための養分として吸収同化することさえ出来るだろう。
 我が人生を通して培った甘えのスキルを駆使してねだり取ったアイスをぴちゃぴちゃ舐めながら、私はそんなことを考えていた。それから私は先に見た瞳の奥の光について思った。そして横にいる男について愛するとか信じるとかそういうわけではなく、この熱に引き寄せられて生きるという自分の性質について。そうだ、私のこの性質を見窮めるためにも、もう少しだけこの人間と一緒に過ごしてみる必要がある、とりあえずこの少し値段の高いアイスが私の体温でとろとろに溶けて形を失ってしまうまでは……。

 子どもの頃から成績が良かったので、大学を卒業してからもなんとなく流れで修士課程、博士課程と進み運よく大学の講師に収まることが出来たのは、人文科の進学者の中では幸運といえば幸運なことだったのかもしれない。しかし幸運がいつも幸福に結びつくとは限らない。社会学の研究と調査を行うようになって、いくつか本格的な論文を発表して初めて自分が人間などちっとも好きではないと気がつくこととなった。自分は勉強が出来たから、周囲の期待があったから研究者になっただけであって、生まれてこのかた、人の営みや人間関係などに心からの興味を抱くことなど無かったことに、ある時期唐突に思い至ったのであった。
研究への興味は尽きても生活は回転させねばならない。それまでに身に付いたスキルや考え方を適当に使いまわせば研究業は成り立つし、こういった自分の内面の人間的な隙すら利用価値があるものだ。というのは学生だって一点の曇りもない学究精神を押し付けられたら息が詰まってしまうだろう。自身の職業に対する客観的で冷めた考え方や、ちょっとした価値観の空洞みたいなものがあってこそ学生は学問を俯瞰する視点に自分たちの価値観を重ね合わせることが出来るのではないか……そんな風に自らを慰めながらもう何年も大学に留まって倦怠の時間を過ごしてきた。
 さて私は職業柄、多くの時間を大学の研究室で過ごすのだが、二階の研究室の椅子位置からするとちょうど校舎裏の小さい路地を眺めることが出来る。そこにいつの頃からか恐らくサークル棟の部室で余ったおんぼろなソファが置かれ、たまに裏路地に迷い込んだ学生がそのソファで思い思いに暇を潰す様子が見られるようになった。私は研究室で考え事をするフリをしながら、そんな学生たちの姿を観察するのが習慣となっていった。学生達はまるで私というたった一人の観客のために、練りに練った創作ダンスを披露しているか、はたまた演技の熟達した俳優が一人芝居を演じているかのように振る舞うのだった。この校舎裏の路地劇場では何年もの間、学生達が数年単位でゆっくりと入れ替わり立ち代わり、まるで人生そのものの休息時間がテーマであるかのようにそのソファに腰をかけては各人のやり方で時間を持て余す様子を演じて見せた。
 あるものはソファで眠り、ある者は本を読み、ある者は大学で覚えたての煙草を一服していた。猫に囲まれて持参の弁当を食べる者もあった。その学生が女子学生と仲良くなる現場も目撃した。そのような場面はこの路地裏劇場では珍しかったので印象に残った。この男女は偶然にもそろって我がゼミに参加してきたので、多少親しく話をするようになった。授業態度はいい加減だったが卒業要件は満たしていたし、卒論も並みのものを提出していたのでなんということもなく単位をくれてやり、彼らは社会へと飛び立っていったのだった。
 その彼らと数年ぶりに再会したささやかなパーティの帰り道、私は食べさせられたわさびの麻婆豆腐について考えていた。あれは辛いのを通り越してとても不味かったな。もっとねぎを入れればよかったのに、味見をする人はいなかったのだろうか……そういえば女学生の方は見あたらなかった……大体、お手本となる者(大抵は両親が人生のモデルになることが多いが)がいなければああいうのはなかなかうまくいかない。おそらく彼の家族にも何らかの問題があったのかもしれないな。付き合っていた女学生の方も対人の受容態度にどうにも問題があったようだが、そういえば以前に彼女も郷里の家族との間に確執があると聞いたし、やはり同じような課題を抱えている者同士の方が一緒に過ごしやすいということか……まあ、そんなことはどうでもよろしい。人間について理詰めで考えられることは私はもう考え尽くしてしまった。理由をたどっていくほど人なんて嫌いになる要素ばかりなのだ。それに、今さらそんなことを考えてどうなるというのか。
真夜中の街を歩き続けた私は、やがて大学の研究室へと戻り、上着を窓の脇のハンガーに掛けた。そして窓を開け、デスク前の革張りの椅子に腰をおろして一息ついた。月の光が窓から部屋へ差して、涼しい風がカーテンを揺らした。私は机の引き出しの鍵を開けて白いケースを取り出しその蓋を開くと、月光が中に入っていた毒薬のビンと注射器をぼんやり照らし出した。静かな夜だ……死ぬにはこんな夜がいいのかもしれない。
 この毒薬は予め、安楽に死ぬための致死量を計算してある。それこそ眠るように死ねるはずだ。私はもう人間に飽き飽きしてしまったのだ。自分の興味と関係ない部分で人間に対する識見が脳内に強制的にうず高く積まれ、いきつくところまでいきついた結果、ついに人間への興味が完全に尽きた。あんな生き物なんかに自分は関りたくない。それにどれほど人を分析し人を理解しても、自分が対象に影響を与えることは出来ず人の行動に関与することはできない。そして私が観察対象を理解するほどには、観察対象が私を理解することもない………観察をすればするほど客観者に徹せねばならないことからもそんなことは至極当然だが……そんな一方通行のような人生のあり方にも、とっくに倦んでしまったのだ。もう人間は私が生きる理由にはなり得ない。
 この薬品を腕に注射すれば、もうそういったことから解放される。興味の持てない対象に無理やり興味を持っているふりをすることもないし、生活の糧のためにそんなものについて考える義務も消える……なにしろ生活そのものが消えるのだから。このようにあれこれ考えてみると、死んでしまうことが素晴らしいアイデアであるように段々と思えてきた。あの馬鹿騒ぎの中で食べた不味い麻婆豆腐が最後の晩餐になるということがちょっと承服し難かったが、煩わしいこと一切から逃れられるこの幸福のためならば、それくらいは許容してもいいだろう。もうこれで金輪際、私は人間なんてものに関与しなくて済むのだ!
 私は薬品の瓶の蓋をひねって開き、注射器の針をアルコールで消毒した。これから死のうとする人間が消毒にこだわることに何か意味があるのか?しかしこれは気分の問題だ……死ぬのに気分は大切なことだ。その消毒した針を注射器に取り付けて薬品をスポイトのように吸わせ、いつか見た医療ドラマのように針先を中指で軽く弾く。これも気分の問題だ、死ぬにはムード作りが肝心なのだ。いよいよ最期の時。私は椅子にゆったりと座って深呼吸をし、左腕の袖をまくって二の腕を出し、ひんやりとした針先をぴったりと腕に乗せた。
 するとその瞬間、窓から雷光が飛び込んできた。その光は私の上着へまとわりついたかと思うと恐ろしい勢いで部屋中を飛び回り、棚の上にまとめていた書類がばさりと散乱し、ガラスのコップが床に落ちて、けたたましい音をさせて割れ、破片が辺りに飛び散った。机の上のペンと時計が床に転がり、最後に光は私の腕にからみついた。私はあまりの勢いに驚いて思わず持っていた注射器を落とすと、「キン」と硬く小さな金属音がして、折れた針がどこかへ吹っ飛んでいった。注射器が扉の方まで転がるうちに中の薬品は全て流れ出して床がひどく汚れた。呆然としてやがて机の上で動きを止めたそのビー玉くらいの大きさの光の玉を見ると、それは淡く緑色に光る一対の黒猫の瞳なのであった。猫は闇に紛れ、校舎のツタを登って研究室へとやってきたに違いなかった。猫は激しく消耗した様子で小さい肩を上下させていた。私は研究室の静寂と暗闇の中で、瞬きすることも出来ず、猫の微かな息遣いの音を聞きながら、永遠にその瞳を見つめ続けていた。

(完)




「そんな原稿出しちゃだめでしょ」     牧野 貴子


『出勤停止を一週間食らった。
 そもそもなぜ私は今の職に就いたんだろう。あまりにもその起源が昔過ぎて考えたこともなかった。それはずっと遠くてずっと近くに私の中に存在していたのだから。小学校の時、番組制作体験なんかをやってしまったことがすべての間違いだったのではないか?私は今でもそう思う。あの時ちょっとでもテレビ番組を作ることに興味なんか持たなければ、今頃は公務員か教員にでもなれたはずなのだ。ああ、本当にしくってしまったと思う。』
 と、ここまで書いて気が付いた。こんな文章、私じゃなくても誰だって書ける。私じゃなくても書ける。
 文章を消す。目をつぶる。私は私のやってきたことを思い出す。
 いつまでこんなことをごまかせるもんなのだろうか。いつまで会社の無断欠勤は許されるものなのだろうか。もうかれこれ一週間近く経っている。文藝フリマの締め切りは今日中だというのに。
 そもそも若狭がいけないんじゃないか。若狭が私に向かって「反省の色がない」なんて言うから悪いのだ。ただでさえ、鹿島ディレクターに殴られて死にそうになっている私の目の前であんな決定的な言葉を言うからいけないんじゃないか。お前のせいだよ、お前のせいで私は会社を無断欠勤しなきゃいけなくなったし、お前の名前で復職診断書だって作らなきゃならなくなったんだ。お前のせいで私はみんなに自分のブログで「出勤停止」と書かなくてはならなくなったんだ。無駄なアリバイを作らなくてはならなくなったんだ。どこまでもとことん人を馬鹿にしやがって。
 もう、思い出したくもない。この職に就いたことも、この職には人権がなかったことも、若狭の顔が綺麗だったことも、若狭を殺そうとしていることも。
 若狭さんは、悲劇のADとして、無念の殉職を遂げるわけです。いいねえ、あなたは人に愛されて。そういうところも最初から嫌いでした。同い年で同じような家庭環境で、気持ち悪い関西弁で、もう何もかもが大嫌いだった。でもあの日までは嫌いだけで済んだ。
 今でもあの日を夢に見る。鹿島Dのビンタ、浴びせられる罵声、そし若狭、お前のきったない声、そして、
「反省の色がないよ」
 あの言葉。
 「まきこちゃん、何がどうなっているの?まきこちゃんは何でここに?」
 そんなバカっぽいうわ言がさ、最期の言葉になるなんて思ってもみなかったでしょ?若狭さんって本当に馬鹿だったよねえ~あんた本当にK大学の出身だったのかな?アハハ、バーカ。
 ねえ、若狭さん。インターネットの生放送を担当していた私がゴールデンの番組に異動することになったのが、運のつきだったんですかね。異動先で私の指導役をしていたのが若狭「さん」だったね。私、世の中にこんなに顔が綺麗な人がいるのかと思いましたよ。白い肌に置かれる絶妙なパーツ。人形のように冷たくみえて、笑うとすごく気さくだった。でも最初から嫌いだった。最初からずっとあんたが嫌いだった。
 ロケ自体は正直結構有名な人にも間近で会えるし、いろいろやることは多いし、それなりに充実してました。休みがないことを除けばね。基本的にロケを週3くらいでやって、その間はロケハンに行って、道路申請をしましたね。私がド田舎の警察署に行って申請書を出しましたね。
 若狭さん、あなたもご存じのように、私は弁当を注文したり、備品を整理したり、地図を作ったり、ロケハン写真を送ったり、そんな細々したことばかりをしていました。誰にでもできるけど、誰かがやらないといけない仕事だったって私は今でも思っています。
「誰にでも出来る仕事はまきこちゃんに任せなよ」
 どうして私はこの業界に入ったと思いますか?若狭さん。私は誰にでも出来る仕事をしたくなかったんですよ。私にしかできない仕事をしたかったの。
 体重が軽くて本当によかったですね。新宿駅のコインロッカーに入ってよかったですね。そして私に殺されてくれてよかった。ね、若狭さん。私の腕の中で冷たくなった若狭さんはちっとも綺麗ではありませんでした。軽かったはずの体重は重くなっていくし、その重さで私を責めているみたいだったし。若狭さんのくせにさ、死んでからまで私を困らせるんですか?
 あのね、若狭さん。私「神童」って言われていたことあるんですよ。私は神の子供だったんですよ。あんたは知らないかもしれないけど、東京のT大学を出た私に誰も逆らっちゃいけないんですよ。わかりますか?あんたがそれをしたから私はあんたを殺したんですよ。ねえ、わかる?若狭さんには一生わかりませんね。
ずっと点けっぱなしのPCから機械音が鳴った。
 「一応、原稿〆切28日です。進捗どお?もしダメそうなら少し伸ばします。」
 書きかけのワードを見つめる。私に書けることってなんだろう。人殺しが何を書けばいいのだろう。
 はい、こんな自問自答すると思った?やっぱり若狭さんは愚かだねえ。私は人殺しであろうが私だ。むしろありのままを書いてやる。まさか小説にありのままを書く奴なんていないもんな。でも悲劇のADになれなかった私にとって、自分の功績を残せるのはここしかないんだよ。だから、ごめんね、若狭さん。あなたのことを「小説のネタ」にさせてもらいますね。あなたは死んでからも私にコンテンツとして消費されるんでしょ?めちゃくちゃ面白いですね。さすが関西人!「体調ひどすぎたら、原稿も無理しないで!また連絡くださいな。」
 私には猶予が与えられた。若狭さんのことを死んでからもなおバカにし続けることが出来る猶予だ。私は本当におかしくなって笑いそうになった。こんなに面白いことが他に存在するのだろうか。なんて気持ちいいんだ、小説ってなんて気持ちいいんだろう。承認欲求、そして自己顕示欲、私にはすべての欲が大きくて、大きくて、今だって欲望が止まらない。若狭さんを殺したって私の承認欲求は本当に満たされない。私だって悲劇のADとして死にたかった。悲劇のヒロインになりたかった。
 結局私は若狭さんを超えることが出来なかった。若狭さんを殺したことで私は若狭さんを超えることが永遠に出来なくなった。
 私はもうおしまいだ。
 「遅くなって本当に申し訳ないです…よろしくお願いします」

 やっと返信をした。ふっと息を吸い込み、そしてキーに軽く手を置いた。どろどろになった若狭さんの身体から目をそらす。ずっと書けなかったこと、私が書きたかったこと、私にしか書けないこと、結局答えが出ないまま、最初の文章を書いてみる。

 『出勤停止になった


(完)




 「メアリー=セレストの警告」     吉野吉村


 ――船長室のテーブルには食べかけの朝食が温かいまま残っており、コーヒーはまだ湯気を立てていた。船長の部屋にも食べかけのチキンとシチューが残っていた……。洗面所にはつい今しがたまでヒゲを剃っていたような痕跡があり、ある船員の部屋には血のついたナイフが置いてあった。船頭に出て確認しても、綱をほどいた形跡はなく、積荷のアルコールの樽もちゃんと残っていた――

 これは知る人ぞ知る海の疾走事件ことメアリー=セレスト号事件に、運命的にも出くわしてしまったある船員が残した調査記録である。メアリー=セレスト号は、1872年11月5日にニューヨーク港からイタリアのジェノバ港へ向かう航海へ出港した巨大な帆船だ。船長は38歳のベンジャミン=ブリッグス、そして彼とともに家族を含め10人の乗組員が乗船していた。彼らの目的は、ニューヨークの酒造会社から出荷された1700樽に及ぶ工業用アルコールを輸送することだった。

 ところが、この輸送のための航海はは惜しくも失敗してしまっている。いや、単純に失敗と表現してしまうのは早計かも知れない。なぜなら、この帆船自体は、しっかりと海上で工業用アルコールを運び続けていたのだから。帆船がアルコールを運んでいた――当然、脳内で容易に思い浮かべることのできる光景であろうが、メアリー=セレストの場合、その状況はかなり奇妙で、不気味なものであった。12月5日にポルトガルのリスボンから西に700キロメートルほど離れた大西洋上で、無人のまま漂流しているところを発見されたのである。

 前述の手記は無人のメアリー=セレスト号を発見したデイ・グラチア号の船員のものであり、彼自身が無人の船内で驚きのあまり立ち尽くすことしかできなかった……という光景がその文面から想像できる。特に奇妙な点は、船内で発見された船長の手記には前日の12月4日の記述が残っていることや、食べかけの温かい朝食とコーヒーが置かれていたことなどだろう。およそ10人の乗組員が集団で無理心中するにしても、食べかけのパンをそのままにして、この世を去る理由があるだろうか?船内の宝石やアルコールなどがしっかりと残されていたことからも海賊の襲撃説や、乗組員自身らが手の込んだ盗賊集団であった説も否定されてしまう。本当に信じがたい話ではあるが、「事実は小説よりも奇なり」とも言うように、これは紛れもない真実の出来事である。150年近くたった現在、この失踪事件の真相について様々な説が提唱されているが、それらしい事実も11人の消息も全く明らかになっていないということである。これが、巨大な大西洋が人類に突きつけた難攻不落の難題であるならば、ちっぽけな我々はどのような手段をもってこの謎に立ち向かうべきなのであろうか。

 仮に、46億年という果てしなく長い地球の歴史を24時間という長さに変換して考えてみよう。人間が船を操り、航海し、別の大陸へと移動するという行為が可能となった期間はそのうちたった一分間にも満たない。海上にはバミューダ=トライアングルや不慮の荒波、近年観測された謎の巨大怪物など無数の謎と危険が潜んでいる。たった一分間にも満たないような時間の中で、人間は大海原という、地球の面積およそ七割を占める巨大なブラックホールに挑もうとしている。そんな人間がちっぽけでおろかな存在であるとは、私は思わない。しかし、海そのものは我々人間にとって大きすぎる存在として今も立ちはだかっているのではないか。まだまだ、現時点での人間の技術力で、海上を渡るという行為には数多くの危険と謎が伴っている。奈良・平安における遣唐使の時代や大航海時代においては、海を渡るという決心はまさに命がけであり、二度と祖国の我が家には帰れないかも知れないという結末を堅く覚悟することでもあった。我々の生きている現代の航海も、安全性は当時とは段違いでありながら、多くの人々が命を落としていることも忘れてはならない。『タイタニック』などは映像のなかだけで繰り広げられる虚実ではない、現実で起こった悲劇であることをしかと胸に受け止めなければならない。

 人類は20世紀より、宇宙への進出を始めている。宇宙空間の謎を国家単位で解き明かそうとしている。自分の住む惑星である地球上の海の謎すら解き明かせていないし、海そのものを安全な空間として手中に収めることもできていない人類が宇宙を知り、支配しよう
できるのではないか、という考え。確かに強いロマンを感じられるが、果たしてそれは絵空事で終わるものとなってはしまわないか。非常に心配である。

 メアリー=セレスト号を調査した船員は船内の3つの手すりに原因を説明できないようなひっかき傷や血痕を発見している。乗組員が突如として全員姿を消した事件の背景には、流血を伴うなにか痛々しい物語が展開されていたのだろう。彼らの失踪に関わっているのは自然災害なのか、人災なのかそれともその両方であるのかは未だに判然とはわからない。この血痕やひっかき傷が我々人類に対する一種の警告であるとしたら……。人間は海というものをまだまだ知り尽くしてはいないのではないか。

 ハッと我に帰る。今、古びた宿の部屋の窓からは広大な海が見えている。無数のかもめが何かをこちらに伝えるかのようにミャー、と鳴き、戦車のように大きな漁船が獲物を求めて動き出した。そうだ、私はこの休日、沿岸にて旅行を楽しんでいる。海を見ていたら自然とメアリー=セレスト号のことを思い出してしまっていたのだ。難しい考えやシリアスな想像を頭の中で巡らせ続けるのはここまでにするか。今は、この雄大な大海原の景色を自分の眼に、心に焼き付ける作業に集中しよう。


(完)

参考・引用元ウェブサイト:http://kijidasu.com/?p=2499




 「断崖絶壁」     吉野吉村


――ずしん、ずしん……

 吐き気がする。体調が優れない。ひどく苦しい。立っていられない。辛抱たまらず、倒れ込むかのように汚い地面へ横になる。

――ずしん、ずしん……

 感じる。今、この時強く鼻をつく鉄の匂い。ただの鉄じゃない。腐った鉄の匂い。小学生の時だったか、この匂いを嗅いだことがあるから、ぼんやりと記憶に残ってる。

――ずしん、ずしん……

 父親が鳶職をやっていた。母親は物心ついた時からいなかった。よく、仕事場に連れて行ってもらったときにこの匂いがするのを感じていた。父親は自分の同僚とあまり口をきかず、休憩時間も静かに茶を飲んで空を見つめていた。父親の仕事仲間はいつも俺をからかった。
「親に似て生意気な眼をしやがって」
彼らは笑っていたが、今振り返ってみれば、ただの悪意ある暴言に過ぎなかったように思う。

――ずしん、ずしん……

 この音は何だろう。どんどん近づいてくる。誰かが重いものを引き摺って歩いているかのような音だな。よく耳を澄ませば、この地面の下からそれは聴こえてくることがわかる。

――ずしん、ずしん……ごつ、ごつ……

 階段を上るような音も聴こえてきた。この階まで上がってくるのか。

 ここはどこだ。もともと俺は自宅の、部屋で眠りこけていたはずだ。何だってこんな無機質な空間にいるんだ。瞼が信じられないほど重い。なんとか半開きの眼で周囲を見渡すと古びた小さな椅子が置かれているのがわかった。布が朽ちた背もたれもある。とりあえずここに座って落ち着いて今の状況について考えよう。

――ずしん、ずしん

 力を振り絞り、椅子に座った。安物の硬いクッションみたいだ。周囲を見渡すと、ここが硬いコンクリートでつくられた長方形の部屋であることがわかった。このうち、三方の壁にはグラフィティアートというのだろうか、スプレーでよくわからないイラストやレタリングが全面に描かれている。強いニスの匂いもする。よく、街の屏やトンネルの壁にこんなものが描かれていたのを時間を忘れて眺めたことがある。まるで、不良のシュミだ……と思いながらもこのグラフィティアートは眼をみはる完成度であった。なんだか、描かれている対象が現実に目の前に存在するかのような描写力であり、よく見れば、神々しくもある。オラついたドラゴン、こちらを見据える鋭い眼光の虎、磔にされたイエスなど……。

――ずしん、ずしん……

 この音を発する主は、この部屋のある階までやってきたようだ。やかましい。もっとこのアートを、目の前の芸術を鑑賞させろ。怒りのあまり、強く、椅子を蹴って立ち上がってしまった。
「あっ」
 俺はこの部屋の残り一つの壁が壁ではないことに気づいた。巨大な鉄格子が、本来なら壁がある部分につくられている。鉄格子のはるか向こうには大海原が見える。どこの海だろうか。おそらく日本だと思いたいが、海外であるという可能性も捨て切れたわけじゃない。俺はしばらく海を眺め、ここから出る手段を考えてみるが、まだ、頭痛も吐き気も治まらない。死んでしまった方がずっと楽になるだろう。大海原の上には小さな船が浮かび、そこに乗る誰かがこっちを見つめている。鉄格子をつかみ、真下の風景を見る。

――ずしん、ずしん……

 断崖絶壁だ。ここは海の上。海上につくられた無機質なコンクリート製の建物の中に俺はいる。眼下にはここと同じく無数の鉄格子がついた無数の長方形の部屋が連なっている。その部屋の中にはそれぞれ違ったグラフィティアートが壁全体に描かれている。何だ、ここは。誰が何のために建設した建物なのか。

――ずしん、ずしん……

 ふと、いつかの父親の言葉を思い出す。
「部屋から海を静かに眺めることのできるホテル、完成したらお前も連れて行ってやるからな。無料サービスだ」
 
 別の日。
父親のもつ受話器から、電話越しの声が聴こえた。
「このホテルの建設計画には安全面における重大な問題が見受けられます。建設を中止せざるを得ません」

 別の日。
同僚と父親が珍しく職場で会話をしていた。
「断崖絶壁にあるホテル?そんな危ないところに住みたがるやつなんていねえよ」

 別の日。
また、父親の同僚の声だ。
「生意気な眼をしやがって。お前の親父のつくるホテルなんかより、立派な避暑地の山林に俺が造ろるホテルの方がよっぽどお客さんに喜ばれるに決まってる。」
「そういや、建設作業中に海に落ちて死んじまったあの新人、お前どうやって責任とるつもりなのよ。いくら謝ったって人間の命は帰ってこないんだよ」
「このままじゃ建設中止なんじゃないの。せっかく八割方できあがってるのにね。いつか未完成の海辺のホテルが廃墟になって、どこかのクソガキのたまり場になって壁に落書きされなけりゃいいがな」

 非常に大きくて重いスコップで殴られ、だらだらと頭から血を流す男の姿がフラッシュバックした。子どもだった俺の頬にも血しぶきが飛んでいたっけ。あれをやったのは親父じゃない……。絶対に違う。認めたくない。

――ずしんずしんずしんずしんずしん……

 音がさらに大きくなる。限りなくこの部屋へ近づいている。親父か?一体何を引き摺っているんだよ。

 鉄格子の下に赤いスプレーで書かれた文字を発見する。
「ウシロヲミロ」
なあ親父……俺は親父が造ろうとしていたホテル、悪くないと思うよ。そうだな、今、俺はここで記念すべき一人目の客になるところなんじゃないかな。

――ずしんずしんずしんずしんずしんずしんずしんずしんずしんずしんずしんずしんずしんずしんずしんずしんずしんずしんずしん

ずしんずしんずしんずしんずしんずしんずしんずしんずしんずしんずしんずしんずしん

最後に十字架のイエスの姿を見た。


(完)




 「ストロベリームーンの思い出」     月峰ゆうり


 ストロベリームーンを見ると恋が叶うんだって! 確か美咲が持って来た雑誌に書いてあったんだっけ? そんなの興味もないから忘れちゃってた。いつがその日だかも覚えていなかったし、思い出す気もなかった。
「だから、今日がそのストロベリームーンなんだって」
 学校に着くと朝一で美咲に言われた。絶賛恋人募集中の美咲には重要なことだ。ずっと話し続ける美咲の横で、私は彼女に気づかれないようにそっと窓の方を見た。
 窓際の後ろから二番目の席。机に突っ伏して今日も寝ている。折原ヒロト。生まれつきだという茶髪に近い色素の薄い髪をぼさぼさにして、そのくせ制服には皺ひとつない。引きが強いのか何なのか、いつだって席替えのくじ引きでは窓際の席を引き当てる。それはきっと彼にとって、とても幸運なことだろう。だって私は知っている。彼がいつも授業中にぼんやりと窓の外を見ていることを。
「ねえ、聞いてる?」
「聞いてるよ」
「今日、ストロベリームーンを見られたらガッくんとの恋も叶うかな?」
 ガッくんとは美咲の片想いの相手。
「叶うといいね」
「うん」
 チャイムが鳴る。チラリと目をやると折原くんはその音に反応してむくりと顔を上げていた。
 おはよう。
 一言、心の中でつぶやく。
 先生が来る。一限が始まる。
 折原くんは折角起きたのに、授業中はやはり窓の外を見上げてぼんやりとしてしまう。彼は特定の仲良しはいないらしい。話しかけられれば適度に返すが、自分から誰かに話しかけているところを見たことはない。教室移動も休み時間も大抵ひとり。ぼっちとかいじめられているとかではないが、群れることを好んでいないらしい。
 そんな折原くんを密かに目で追ってしまう私は何なのだろう?

 塾が終わるとすっかり暗くなっていた。私は伸びをする。友だちは親が迎えに来ていたり、何人かで連れ立って帰ったりで十分もすると塾の前は静かになった。今日は親が迎えに来られない私は、ひとりで帰り道を歩き始める。街灯が等間隔に立っており、さらには繁華街も近い。二十四時間営業のコンビニも何軒かある。家までの距離を怖いとは特に感じなかった。
 だから、その公園に寄ったのはほんの気まぐれだ。帰り道の途中にある、昔よく遊んだ公園。ブランコとジャングルジムと滑り台。遊具はそれだけ。ふらふらと誘われるように中に入った私はブランコに腰掛ける。音が鳴らないように、静かに、そっと。
 そのとき、滑り台の上に誰かいるのに気づいた。じっと目を凝らすと、うちの学校の制服を着ている。さらに目を凝らすと、色素の薄い髪がぼさぼさと跳ねている。
 折原くんだ。
 私は目を見張った。驚いてしまったのだ。そのせいだろう。ブランコがきいっと音を立てた。
「……誰?」
 掠れたような声がする。目を細めて睨んでいる。
「ごめん、驚かす気はなかったんだけど」
 私は観念して立ち上がる。
「ああ、君は……」
 誰だか認識してもらえたようだ。
「折原くんは何をしているの?」
 夜にひとりで。公園の、滑り台の上。彼は座ると空を見上げた。
「今日って、ストロベリームーンって言うんだって。満月なの。知ってた?」
 いきなり彼の口からそんな言葉が飛び出して私は面食らう。脈絡のない会話。それに出てくる美咲から聞いただけの言葉。
「ああ、そういえばそうだね。確か赤く見えるんだっけ?」
「っていうのは俗説で、本当はネイティブアメリカンの苺の収穫時期の満月だからなんだ」
「そ、そうなんだ……」
 私と話している間、折原くんはずっと夜空を見上げていた。空は雲がかかっていて、残念ながら今のところ月は見えない。
「見たら恋が叶うって聞いたけど」
「よくあるおまじないだね。まあ、信じている分にはいいんじゃない?」
 折原くんは淡々と事実を述べる。それでもこんなに饒舌に話す彼を初めて見た。
「折原くんは空が好きなの?」
「どうして?」
「だっていつも教室の窓の外を見ているでしょ。それに今だってずっと空を眺めて月の話をしている」
 そこでようやく折原くんは私の方を見た。暗い中でも、彼の姿は割とはっきり見えた。
「好きっていうより、恋いこがれているって感じかな」
「はい?」
 秘密だよ。そう小声でつぶやかれた気がした。見ると彼は滑り台のてっぺんの手すりに手をかけてこちらを見ていた。
「実は僕、この星の人間じゃないんだ」
「……は?」
 私はたっぷりと間を取ってから、特大の疑問符を投げつけた。
「あ、馬鹿にしたでしょ」
「いや、馬鹿には……したか。とにかくそんな突拍子もない冗談に驚いたんだよ」
「冗談じゃないよ」
 どこか拗ねた声で彼が言う。私は何と返していいか分からなかった。
「数年前に誤って不時着してしまったんだ。それから何とか元の星に戻る方法を見つけようとこの地球での知識を必死で学んでたんだ」
「それで、見つかったの?」
 茶化して言ったつもりだったのに、折原くんは大真面目な顔で頷いた。
「ああ、ようやくね。僕の星と連絡を取る手段を見つけて、この前通信をしたんだ。それで今日迎えに来ることになっているの」
 だけど、とそこで言葉を切る。
「君に見られたのは想定外。誰かに見られたら記憶操作が上手くいかなくなっちゃうもの」
「記憶操作?」
「そう。もともと僕という人間はいなかったように、全員の記憶をいじる予定でいたんだけど、真相を知っている人がひとりでもいるとそれは完全には出来なくなってしまうんだ」
「私が内緒にすると言っても?」
「ああ、ダメ」
 彼は困ったように笑っていた。だけど声はそれほど困っているようには感じない。
「ねえ、迎えが来るのはいつ?」
「あと一時間もしたら来るよ」
 折原くんの言っていることは本当なのか? 彼があまりにも自然に話すもんだから、信じかけているのかもしれない。
「君はもう帰った方がいいよ。夜は危ない」
「もう少しだけ話させてよ。だって折原くんの話が本当なら、今日で会えるのは最後になるんでしょう?」
「そうだね」
 折原くんはまた滑り台の頂上に座ってしまった。ブランコからだと顔の表情までは見えない。
「どうして学校に通っていたの?」
「その方が勉強しやすいと思ったから。それに、どうせだからここの星での生活も見てみたかった」
 真面目くさった口調で言う。
「そうなんだ」
 会話が途切れる。彼は空をいつまでも見ている。
「ねえ、そんなに元の星が恋しいの?」
 いつの間にか私は彼に話を合わせていた。
「そうだね。とても恋しい」
「どんな星?」
 何となくだけど、彼が目を閉じたような気がした。母国を思い出しているような。
「綺麗な星だよ。ここで言うような植物や動物もいてね。地球よりも遥かに科学は進んでいる。だけどここで言う自然と人工物の調和がとてもよく取れている。人類同士の争いはもうほとんどなくて、皆話し合いによって解決する方法を知っている」
「とても理想郷に聞こえる」
「ははっ。理想郷か。いいね、それ。きっと僕の星は理想郷なんだ。君も来るといい」
 本気なのか冗談なのか、相変わらず分からない口調で言う。
「ここにはもういられないの? それともいたくないの?」
「正直に言うといたくないんだ。僕の星の方がずっと優れている」
「ここじゃダメなの」
「情に絆されないように誰とも距離を縮めなかったんだ」
 私は俯いた。彼の言っていることが作り話でも本当でも、とにかく今日が彼と会える最後の日のようだ。それをはっきり認識してから、私の胸は急に痛み出したのだ。
 どうして、今。唇を噛む。
「あ、ほら。そろそろ。雲が晴れてきたでしょう」
 彼が言う。確かに雲が途切れて、濃紺のもっと彩度を落としたような夜空が顔を見せ始めている。月明かりだろうか。光が漏れ出し、彼の顔も見えるようになる。
「行っちゃうの」
「うん」
「もう少しここにいられない?」
「ずっとこの日を心待ちにしてたんだ」
「私は君のこともっと知りたい」
 そう言うと彼の表情が歪んだ。
「無理、なんだ」
 つぶやくように吐かれた言葉に私は黙るしかない。
「手紙を、書くよ」
 思いがけない言葉に顔を上げる。
「住所を知らないでしょう」
「教えて」
「メールじゃダメなの」
「手紙が好き」
 そう言われては仕方ない。私はペンケースのメモ帳に住所を書いて渡す。受け取る彼の指先はぼうっと白く淡く光って見える。
「さあ、時間だ」
 そう彼が告げたときだった。雲が完全に途切れて、月が顔を出す。まんまるの綺麗な満月だ。
 私は思わず息を呑む。月が、赤く染まって見えた。
『ストロベリームーンを見ると、恋が叶うんだって!』
 美咲の声が頭の中で響く。ああ、これが。
『本当はネイティブアメリカンの苺の収穫時期の満月だからなんだ』
 さっき教えてくれたばかりの彼の声もする。もうどちらでもよかった。月をこんなにまじまじと今まで見つめたことはなかった。だからだろうか。この空に浮かぶ球体にはこんなにも力があるのだろうかと見とれてしまったのだ。まるで何か魔法にかけられたように、それは静かに語りかける。
 ハッとする。滑り台の上にはもう彼の姿はなかった。
 一瞬のことだった。
「ウソ、でしょう」
 つぶやいた言葉は誰に拾われることもなく、赤く光る月に吸い込まれていった。

 次の日学校に行くと、ホームルームで担任が「折原ヒロトの転校」を告げた。理由は家庭の事情というありふれたものだった。特定の仲良しがいなかった彼を気にかける者は誰もいなくて、一週間もすると彼の名前もクラスの中から消えてしまったようだった。
 その頃に、彼からの手紙が来た。何度か手紙のやり取りもしている。だから私は知っている。その差出人の住所が東北の山奥の方になっていることも、だけどその住所をネットで検索しても出てこないことも。だからって行って確かめるつもりはない。これからも永遠に。彼は本当に違う星の人で、この住所はいわば私書箱のように彼の星への中継地なのではないだろうか。本気でそう思ってもいる。本当のところはあの夜のストロベリームーンだけが知っているのだ。


(完)




 「茅野兄弟の事件簿(一)」     月峰ゆうり


 「……というわけでだ」
 高田明伸部長―通称ノブさんの太い声が部室に響く。
 どこが、というわけでなのかさっぱり分からないが、結希もとりあえず頷く。そういえば、春には桜が綺麗だったよな、ウチの学校。なんて関係のないことも思い出す。二年生になったら教室が二階になるから、眺めはもう少しよくなるんだろうか……。
「新部長は、茅野。お前だ」
 ノブさんが新部長を発表する。
 今日は三月の二十五日。春休みになってまだ二日目だ。結希の所属するテニス部では新部長が発表された。本当ならば引き継ぎの手順よろしく、三月の初めには新部長を決めて生徒会に報告しなければいけないはずなのだが、そこはノブさんだ。期限なんて守るはずがない。
 生徒会でもそれを承知なのか、催促をノブさんが無視したのか分からないけれど、とにかく今日、テニス部の新部長が発表されることとなった。
「茅野、聞いてるのか?」
 ノブさんの声はよく通る。別に大きな声を出しているわけではないが、狭い部室では十分すぎるほど響くのだ。
 部員たちも全員がノブさんに注目して……、あれ? 違う。部室にいる結希以外の六人が十二個の目を結希に向けている。えっ……。
「茅野、分かったか?」
 ノブさんの声が響く。そして僕の名前は、茅野結希。茅野なんて名字、学校はともかくテニス部じゃ一人しかいない……。
 状況を理解した僕は、ふんふんと頷き、アサリのごとくパカッと口を開く。それから日頃の筋トレで鍛えている腹筋を目一杯使って―
「えーーーーーーーーーーっっっ!!」


 頭がパニックになる。
「なんでですか? え、僕が部長!?」
「茅野、お前話聞いていなかったのか?」
耳を押さえながら、ノブさんが言う。
「部長なんて、僕には無縁の話かと……」
はぁという、みんなのため息。いや、落ち着くためにも、ちょっと今の状況を整理しよう。
 僕―茅野結希―は、浜渡高校に通う高校二年生だ。あ、でも今はまだ三月だから、書類上では一年生なのだろうか。そしてさっきも書いたが、今は春休み初め。
 浜渡高校は特にこれといった特徴のない公立の共学校である。偏差値は県内で中の上。可もなく不可もなくといった生徒が入学してくる。他校から見ればそんなことないのに、生徒達の中には自分の学校を進学校だと思っている奴もいる、そんな学校だ。四分の一から多いときでは半数近くの生徒が、就職を選ぶ学校を進学校って……。
 まあ、そんなだから部活動に対する様々なことが、進学校並みだったりする。そのうちの一つがこの新部長決めだ。
 この時期なのだから、新三年生はまだバリバリ部活をやっている。大半の学校が新部長を決めるのは三年生が引退するとき、つまりは夏なのだけれど、浜渡高校では春休み前に行われる(男子テニス部は例外だったが)。これは、進学校並みだ。どこでウチの学校は意地を張ってんだろう……。
 というわけで、早々に部長を交代するおかげで新三年生は部活に打ち込めるわけだが、新二年生からしてみたらなんとも困った話だ。まだ、一年もやっていないのに部の活動に関する雑務全般を一気に押し付けられることになる。だからこそ新部長はリーダーシップが取れるような人がなるのが普通なのだが……。
「どうして、僕なんですか?」
 僕は間違っても、リーダーシップなど取れるような人間ではない。テニス部に同じ学年の奴らは僕を含めて三人いるが、その三人の中でも僕は真っ先に外れるだろう。なのに、なんで?
「いいか、茅野」
 噛んで含めるような調子でノブさんが口を開く。
「はい」
「それは、お前の、顔だ!」
 まるで探偵が犯人を名指しするかのように、ノブさんは僕の顔を指差す。
「はぁ……?」
「まだ分からないのか?いいか、我が部は年々部員の減少傾向にある。俺達の代は四人、お前たちの代は三人だ。俺達の上の代は五人だった。茅野、ここから何が分かる?」
「え、毎年一人ずつ減っていますね」
「ぶらっぼーっ!」
 ノブさんが言ったそれが、舞台などが終わったあとによく叫ばれるブラボーだと気づくのに時間がかかったのは、結希だけではなかったはずだ。どうも、この人のテンションは違う方向に行き過ぎる……。
「その通りだよ。いいか、茅野。このままでは今年の入部者数は二人、来年は一人、再来年はとうとうゼロになってしまうだろう」
「来年て、先輩はもう卒業なさってるじゃないですか」
 それに、なんだその単純計算は。
「何を言う!愛するテニス部が廃部なんてことになったら、悲しいじゃないか」
 よよと泣きまねをするノブさん。
「建て前は分かりました。で、本音は何です?」
「後輩が少ないと、三年生を送る会が貧相になるじゃないか」
 これまでにないほどまっすぐな眼差しで、ノブさんは言い切る。ですよね……。
「そこでだ。勝負は、部活動紹介にあると俺は踏んだわけだ」
 毎年、新学期初めに新入生は体育館に集められて、部活動紹介を見る。去年の結希たちもそうだった。ただ、僕はテニス部に入ると決めていたので半分以上寝ていたのだが。
 話によると、部員集めに躍起になっている部は様々な趣向を凝らしてくるらしい。そこで、部員数が大幅に変わるのかは誰にも分かっていないけれども。
「話を聞くと、どうやら女子テニス部も部員が減っているそうじゃないか。これは同じテニス部同士、協力しないわけにはいかないだろう。というわけで、俺はその話を女子テニス部に持ちかけたんだ。すると、どうだ。やはり、向こうも同じ考えだったらしい」
 得意そうにノブさんは言うが、実際は再三のノブさんの訴えに女子テニス部が折れてくれたんだろう。
「女子テニス部と協力するのは分かりました。でも、それで、なんで僕なんですか?」
「だから、言ったろう。お前の顔だと。いいか、向こうの新部長は吉岡美紀らしい」
「あ……」
 ノブさんがニヤリとする。
 これでは僕の容姿について、書かなければいけないだろう。でも、これはあくまで人が言っていたことなので、それを分かってほしい。あくまで、他人が言ったことであって、僕は一言も言っていないということを……。
 僕の容姿は「かわいい」らしい。身長は一応173センチメートルあるのだから、こう言われるのはやっぱり顔、なんだろう。これは、僕の親友の言葉だ。
「ぱっちり二重にピュアな瞳。上がった口角に、チャームポイントはその八重歯。女装させたら、本物の女子が嫉妬してしまうであろうその容姿はまさに、天からの授かりものだな」
 ただ、僕にその自覚は全くない。そりゃあ、どちらかと言えば、かっこいいよりはかわいいと言われる顔立ちなんだろうけど、でもそれが特別優れているものだとは思っていない。だけど、密かに、というかだいぶ公に、「浜高一の美男は茅野結希」とか言われていることを書いておけば、皆さんには僕の容姿を想像してもらえるだろうか。
 もう一度書いておくけど、これはあくまで他人が言っていたことであって、僕は一言も言っていない。まあ、都心の方に遊びに行けば、街で声を掛けられることも少なくはないんだけどね……。
 それから、女子テニス部の新部長の吉岡さん。彼女については僕の言葉で書ける。彼女は、見目麗しき美女だ。クラスは違うのだけれど、その噂は日頃からかねがね聞いている。
 見た目が優れているだけでなくて、彼女は頭の方も優れているのだ。噂では浜高よりもだいぶ上の私立高からの推薦もきていたとか。成績優秀、容姿端麗。それでいて性格は奥ゆかしく、控え目。そのいでたちは大和撫子と形容されるのも頷ける。実はさっきの言葉には続きがあって、「浜高一の美男は茅野結希、美女は吉岡美紀」と言われているのだ。そんな僕と吉岡さんがテニス部に入ったのは全くの偶然である。
 でも、その二人を部長にしたのは……。
「まあ、詳しい話は明日、女子テニス部と合同でするから。じゃあ、今日は解散!」
 ノブさんの鶴の一声で、みんな帰り支度を始める。腐っても鯛、テンションがおかしくても部長を一年務めあげた人だ。部員からの信頼は厚い。
 僕もそそくさと帰り支度をしようとしたのだが、
「あ、茅野は残れよ。部長の仕事、教えてやるから」
 いえ、いいです……。


 「え、それで、兄ちゃんが部長!?」
 リビングに弟の智希の声が響く。
 結局あの後、部長の仕事を教えると言ってノブさんの雑談に付き合わされた僕は、家に着いたのが春休み中とは思えないくらい遅かった。でも、ちょうどダンスのレッスンから弟の智希が帰ってくるのと同じくらいだったので、二人揃って遅めの夕食をとることになった(母親は残念ながら、息子たちが帰ってくるのを待とうなどという謙虚な人ではない)。
そのときに今日の経緯を何となく智希に話していた(母親は残念ながら、息子たちが食べ終わるのを待ってから寝ようなどという謙虚な人ではない)。
 智希は大げさに吹き出した。
「兄ちゃん、今までに長のつくものをやった経験は?」
「全くない」
「だよねぇ」
「そりゃあ、僕だって、やりたくないよぉ」
「また、なんで兄ちゃんなんかを部長に?」
 智希がニヤニヤしながら訊いてくる。
「うん、ノブさんが言うには、顔だって……」
 一瞬だけど、智希の顔がハッと凍りつく。それから、あからさまに不機嫌になる。あれ、僕、またなんかやっちゃったかな。
「へえ、顔。そうだよね、兄ちゃん、女の子にモテるもんね」
「え、そんなことないよ。ともくんの方がモテるでしょ」
「まあね」
 さらりと言う。智希は昔からこういう奴なのだ。僕の弟なのだから、その顔だちはやっぱり「かわいい」と言われている。さらに、智希の場合、身長も今度中学二年生にして150センチメートルもないのだから、全体的に「かわいい」のだろう。そして、僕と決定的に違うのは、智希はそのかわいさを自覚している。自覚したうえで、行動しているのだ。智希は計算高いということだろう。
「まあ、バレンタインデーのチョコの多い少ないなんて、ほんの一部分にしかすぎないもんねぇ」
「それ、まだ気にしてたの……」
「ふん」
 今年のバレンタインデー、智希は全部で十二個もらった。僕は十三個だった。たったそれだけのことなのだが、智希には大問題らしい。
「兄ちゃんに、一個負けた!」
 智希はあまり外では出さないが、実は相当の負けず嫌いだ。特に、何故か知らないけれど、幼いころから僕のことを競争相手としてきている。僕にはそんな気は全くないのだから、負けることなんてしょっちゅうなのに、智希は一回でも負けるとそれが気に入らないのだ。
「それにともくん、甘いものあまり好きじゃないじゃん……」
 ちなみに僕は甘いもの、大好き。チョコでもケーキでもプリンでも、何でも来いだ。もちろん、もらったチョコは全部おいしく頂きました。
「それとこれとは別の話!」
 智希のもらったチョコの大半は手つかずで僕の所に回ってきた。もちろんおいしく頂いたわけだけど……。
「もらったものはちゃんと自分で食べなきゃ」
「いいじゃん、兄ちゃんにあげたんだから。それに、お返しだってしたんだし」
 正確には僕がお返し用に多く焼いたクッキーを、ラッピングしてあげたんだけどね。
「はぁ。ま、いいや。とにかく、僕が部長だなんて……」
 智希はやっと嬉しそうに顔を挙げた。
「ふふん。楽しみだね、兄ちゃんが部長だなんて」
 最後には♪マークでもついてそうな雰囲気だ。
 ああ、この子は結構腹黒いんだった……。

(続く)


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