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行間を読む

 先日、ゼミでとある中山間地域で起きているある社会問題の解決に向けた取り組みについての論文を読み議論をしていた。よくある人口減少による担い手不足のような話になったのだが、「問題に対する対策をしなくなっている」という話題が出たときに少し議論が停滞した。なぜかというとこの論文では対策をしなくなったことを肯定的に捉えていたからだった。この論文自体は担当の教授が持ってきたものだったが、教授の意図もまさにこの点にあった。

 普通、なにか課題があってそれを解決しようとする取り組みがあったら、それは継続される、もしくは改善されていくべきだと考えるのが普通であろう。しかし、この論文ではそうは捉えなかった。だから議論をしている私たちは戸惑ってしまった。でも、この論文の良いところはまさにこの「普通」と考えられることに対して「?」を投げかけたことだったのだ。

 僕らは論文という文章の形で出されたものを読んでいた。そしてその内容をまとめ議論を行ったわけだが、少なくとも私は最初に読んだときにこの「普通」に縛られてしまっていた。ではなぜそう感じてしまったのかといえば対策を「しなくなった」という言葉にどこかマイナスな要素を感じていたからだった。「しなくなったから困っている」だとか「できなくなってきたから他の新たな方法が求められている」と書いてあるなら「困る」や「求められている」と多少は間接的でもその状況に対してのネガティブな面について言及しているので分かるのだが、対策を「しなくなった」というだけでこう考えてしまったのはなぜなのだろうか。

 そんなことを考えていたときに思いついたのが、「行間を読む」という行為である。言葉にはされていないけど、感じ取ってしまうものとでもいえば良いのだろうか。例えば「彼は遅いんだよね」という言葉を聞いてどんな印象を抱くだろうか。何も思わない人もいるかもしれないが、少なくともポジティブな印象を持つことはないのではないかと考える。これも「遅い」という言葉の背景に、何かネガティブなことを感じ取ってしまうのである。

 そこで、この論文のように言葉に含まれている(と私たちが思っている)要素を一度「」にくくるのだ。「遅い」ことをネガティブではなくポジティブにという話ではない。もちろんポジティブでも良いのだが、「どっちでもない」というのもありだと思うのだ。今までされていたことが「されなくなった」り、何か他のものと比較して「遅かった」りすることはあるだろう。その言葉にをつけることで、滲み出てしまう(私たちが感じ取ってしまう)ものを抑えてみることができれば、違った見方ができ、見方が増えることがいろいろな可能性を開く端緒にならないだろうか。


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