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森毅先生の教えに学ぶ(6)【若者よ、たくさん間違うのだ!】

京都大学の故・森毅先生の本から現代を考えています。

前回はこちら。

今回はP83から。

ケプラーでもデカルトでもウソいっぱいついとるわけです。安心してウソをついた時代、間違った推論をし間違ったことをいっぱい言うて、その中で数撃ちゃ当たる式にだんだん当たるところが残って今の科学が成立しているんですね。(中略)で、今の社会科学なり生物科学なり今まで数学にあまりなじみのなかった学問と数学とかとの親近関係ってのも、もっといっぱいウソがつけると非常に生産的になるのではなかろうか(笑)。そんな感じがあるんですけどね。

塾の現場で教えていると、「間違うこと」に恐怖を感じている生徒が多いなと気づきます。「正しいこと」への過剰な信仰のような心理的な傾倒が見られると思います。
私が受験生の時にも、それなりに受験の神様のようなカリスマ先生はいましたが、今の受験生の崇め方には、私たちのころとは違ったものを感じます。

塾講師としての私の存在についても、生徒から私がカリスマ講師でないという理由で、あしざまな態度を取られることがあります(^^;

ある生徒が教えてくれたことなのですが、クラスの同級生が「自分は勉強は東進の先生から教われば十分。学校の教師なんていらない」ということらしく、学校では授業はガン無視なのだとか。そんな生徒もいるんだなと驚いたことがあります。

受験に役に立つ情報を効率よく学ぶことへの執着のようなことを感じます。それは、間違うことに全く価値を置いてないことを示しているのでしょう。

しかし、塾講師をしていると、このような受験生はあまり伸びないんですよね。

というのも、勉強は、効率という点で言っても、失敗から学ぶ方が効率がいいからです。

例えば👆の記事に書きましたが、2次関数の最大最小の問題はグラフをかくことが大切ですが、これを「2次関数の問題は、グラフをかけ」と情報で学ぶより、解けなかったり、間違えたことの体験がある方が、理解がよくなります。失敗の経験は、決して回り道ではないのです。

森先生がおっしゃるように、デカルトやケプラーのような偉人ですら、いっぱい間違っていたんですから、受験生が間違って何の問題もありませんし、むしろどんどん間違って、「間違った推論をし間違ったことをいっぱい」体験しておくことは決して悪くはありません。間違いは、理解への手助けになるものだからです。失敗から学ぶことはとても大切です。

さらにいうと、間違ってしまったことで、「俺は何をやってるんだ」「私は、ぜんぜんダメ」という謙虚な視点を獲得できることもかなりのメリットになります。勉強ができないことで自己肯定感が下がることはよくありませんが、勉強ができるくらいで、調子に乗ってしまうのもそれは、それで害悪だとも思います。

今の受験制度の批判として、自立心を欠いた若者を生み出しているという点は、その通りではと思っています。カリスマ講師は、依存心のある受験生の生き血を吸って肥え太っている側面があるからです。失敗を恐れる心理を利用して、自分のビジネスに取り込んでいる人を見ると、わかってやってるんだろうからかなり悪質だとも言えます。

間違ってもよいよというメッセージは、そんな魔の手から救い出すことにもなるのかなと思っています。

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