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森毅先生の教えに学ぶ(2)【GPA「だけ」はやっぱりヤバいのでは?】

京都大学の森毅先生の本から現代を考えています。

今回は、P38 学生よ、頭を使え! から

学年末テストに、あほらしい経験をした。教育学のテストで、問題は「近代公教育の理念と内容」、これならなんでも書けると思っていたら、白紙をにらんでいるのがおる。(中略)書いている答案がみなワンパターンで、明治五年にナントヤラと書いている。たぶん授業で日本の公教育があったのだろうが、イギリス産業革命と公教育だって、フランス革命と公教育だって、なんでも書けそうなものだ。授業の再現しないと点数が悪いという伝説があるが、とても事実とは思えない。あとで聞いてみると、やはり授業で違うことを書いたのは、点がよかったらしい。

現代の視点で見ると、結構怖いことが書いてあるような・・・。

大学で学ぶ意義の一つに、知性の楔を打ち込むことがあると思います。さらに大切なことは、授業で習ったことの「周辺」を探索にいく遊び心と思いますが、現代はこのあたりの文化が消滅しかかっているように思います。

今の大学生は、このころの大学生よりも強固にテストとは、授業でやったことをアウトプットとして吐き出すことだと信じているんじゃないかなと思っています。彼らが問題だというより、社会がそのように誘導しているのではと思えてなりません。よく考えると、それってAIができることでしょう?時代と逆行していると思わないのかなと不思議に思ってしまいます。

はっきり言えば、日本の公教育の歴史を「知識として知る」ことはそこまでの価値はないかなと思います。それよりも、日本の公教育の歴史を軸に、「そもそも公教育ってどのような経緯で広がるのものなんだろう?」と考えることが大切ではと思います。
だったら、森先生のおっしゃるように、産業革命が、フランス革命が、移民国家アメリカが、どのようなことを大切に公教育をしてきたか「気になる」のではないのでしょうか。

森先生もそのあたりのことをおっしゃっているのでしょうし、出題された京大の先生もそのあたりに狙いをもって出題されたのではと思います。案の定、そのような方向にステップした学生の答案が良い点数となるのは、ある意味当然なのかなとも思います。
それは、そこで耕した「思考力」は、普遍性があり、人を育てるという価値観があるからでしょう。

また、大学の先生も世代が変わって「授業でやったことを、ちゃんと書け」という先生って結構いるのかなとも思ってしまいます。
そのあたりの峻別は、先生のキャラクターということなのだろうと思いますし、普段の授業から、ちゃんと人を見ておかないといけないのは、私が学生のころと変わっていないところでしょう。

先生方の視点では、「授業で言ったことをそのままテストで書くような「アホ」は点数悪いよ~」とアピールしておかないと、学生は判で押したように同じことを書いてくるのではと思います。これでは採点は苦行でしょう。

今の大学生には、このようなことをもってしても、同情したくなってしまいます。だって、「GPA」が就職に響くんでしょ?だったら、「GPA」重視で学生は行動しますよね。リスクのある行動なんてできるわけがないと思う学生が大半でしょう。
そのような視点で本当の優秀な学生って育つんですか?って話になりそうに思いますが、そう思わない人が主流だから、このようになるのでしょうけど・・・。

考える力の育成って、こういうソフト力が結構大事ではと思いますが、日本では制度とか入試とかハードをいじりたがるものなので、なかなかうまくいかないのではと思わなくもありません。「GPA」もソフトとしてではなく、ハードとして見ている大学の先生は多いのかもしれませんね。

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