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日曜日の本棚#47『こちらニッポン…』小松左京(角川文庫)【「イフ」の世界が描く「近景」と「遠景」のリアリティー】

日曜日は、読書感想をUPしています。

前回はこちら

今回は、フォローさせていただいている「よはし」様からご紹介いただいた、小松左京先生の『こちらニッポン…』です。

よはし様は、小松左京作品について記事を書いておられます。

小松左京のSF小説に描かれた内容はフィクションです。でも、そうしたSF小説を読むことで、非連続変化に対して、人間集団の行動を想定する思考訓練ができるのです。
仮説を仮説で終わらせずに、企業活動として実行に落とし込む。その過程では、関係者の反応を想定しながら、様々な手立てを打っていく必要があります。そうした際に、SF思考が役立つのです。

上記記事より

小松左京作品全般としてのご見解ですが、「仮説を仮説で終わらせずに、企業活動として実行に落とし込む」ことがいかに重要か。とても納得のいく論考だと思います。

それは、本作で描かれたような「仮説」が導く状況に対して、人間がどのように行動するのか。その思考の鍛錬がとても重要だと思うからです。

作品紹介(角川文庫 作品紹介より)

一昨晩おそく、泥酔して地下鉄の階段から転げ落ち、気を失ったようだ。やっと意識を取り戻すと、街が異様な様子に一変していた。市街のあちこちで、タクシーが電柱にぶつかってぐしゃぐしゃになり、無人となった住宅の密集地あたりでは、黒煙があがっている。大阪じゅうの人間が、僕ひとりを残して消えてしまったのだろうか? あらゆる都市の知人宅や会社に電話をかけまくったが、誰も出ない。緊張と興奮の連続でくたびれ果てていたとき、突然、電話のベルが鳴った――! 日本が空っぽになる異常事態。残されたわずかな人間たちは、極限状態をどう生き延びるのか? SF長編の金字塔!

所感(ネタバレを含みます)

◆徹底したキャラクター目線で描かれた「近景」のリアリティ

日本を沈没させた作家・小松左京が描く、「国土が残って人がいなくなった世界」を描くSF作品である。「イフ」を描く数少ない日本の作家の想像力による世界観の大きさは、キャラクター通して遺憾なく発揮されている。

まず、痛感させられるのは、「ありえない現実」が眼前突きつけられると人間は、過去を捨て去ってしまうというリアリティである。

妻と子供がいた主人公・福井は、妻子の存在を消し去ることはないが、過去の感傷に耽るシーンはほとんどいない。それどころか、抑制的ではあるものの、新しいパートナーを得る自然な流れが表現される。

私は、この小松の解釈に妙なリアリティを持った。人間にとって過去は、現在に、さらに未来にその継続性が保証されるときに限って意味を持つものではないのかという視点である。

連続性が断絶された世界では、過去を振り返ることはあまりに辛く、過酷な思考となる。主人公・福井は、心理的に妻も子供も捨ててはいない。しかし、もう戻ることのない過去を振り返ることで、生きる勇気を失うのであれば、人間はそれを封印するものではないのか。

そのような「過去を捨て去って」未来へのエネルギーを得た人々は、残った人々同士で連帯し、生存への模索を始める。

そこで描かれるのは、未来なき明日の生存を得るためのサバイバルである。

それは、必然的に現代人が忘れかけている身体性の回帰につながっていく。

現代では、知的エリートが特権的地位を占めているが、本作で描かれる世界では、恐らく彼らは役に立たないであろうとも感じた。というのも、知性は、社会基盤という楼閣の上に成り立つものだからだ。それが無くなれば、彼らの優位性は瞬時に氷解してしまう。それほど、基盤はいつの時代ももろいものであると思う。

この世には、絶対的なものは存在せず、あらゆる存在は相対的なものであるというアルバート・アインシュタインの思考が頭をよぎる。

人間は万が一に備えて野性的な思考や行動力も残しておかないと生き延びることはできないのだろう。それは頭の片隅に置いておいて損はないと感じた。

本作に小松の思想的な主張は感じられないが、必然性を追求した結果、それは一つの思想になっているのではないか。

それは、小松がこだわったキャラクターの行動であり、それは近景として読者の前に重く鎮座する。そこから、読者に何かをインスパイアさせる力が生み出されているのだろう。

◆キャラクターの目線の先にみえる「遠景」が描く「世界のサイズ感」

本作は、現代社会どのような社会なのかを切実に描いている作品でもある。登場人物は、それぞれの持ち場で「科学技術」の恩恵の下に生きていることを実感させられる。

前半の大阪編では、彼らの拠点が、今はなきホテルプラザであることが象徴している。はじめは彼らの行動の選択肢に身体性は感じられない。それは現代人がいかに「人工的な空間」に生きているかを実感させる。

そこから読み手である私は、小松の描く「遠景」を理解するようになっていった。

現代社会は、実は想像以上に人の手を必要とする「大きな世界」を生きているのではないか。彼らの生存を支えたのは、確かに自動化の技術ではあったが、そうであっても、有効期限は1年はない。

そこで痛感するのは、「就職氷河期世代へのあまりも無慈悲な仕打ち」によるツケである。

現代の奴隷奉公のような待遇で彼らの未来を奪った結果、団塊ジュニアのジュニアの世代は、本来あるべき数として、この世に生まれてこなかった。

それがもたらしたのは「人」つまり、「労働力」の縮小再生産である。

本作を読んで感じるのは、現代社会を構成するために必要な労働力への想像力だった。今の私たちの生活を支えるには、労働者は一体どのくらいいるのか。数値では示されないものの、現代社会を構成するための「サイズ感」は、感覚的に感じているよりもずっと大きいのではないか。

現代人が「今の生活」を維持、場合によっては拡大させたいと思うのであれば、人の数は増えることが必要である。本作は「遠景」を通してその必然性を理解させたように感じた。

その視点があれば、人口を減少させる手を打つことは、恐ろしくてできなかったであろう。

減らすことはできても、すぐには増やすことはできないのが人口であるからだ。

人口ボーナスであった「団塊ジュニア世代」を狙い撃ちした形になった「就職氷河期世代」への仕打ちは、私たちの社会が今後支払うべき「無形の借金」として突きつけられることだろう。

新自由主義者は、目先の利益に目が眩み、本当に愚かなことをしたものだと痛感する。

小松は、『日本沈没』の冒頭で、主人公・小野寺に東京駅で建物の亀裂を発見させるが、今表出している人手不足は、まさにこの亀裂であり、今後起こる恐るべき予兆にすぎないだろうと本作を読んで覚悟した。

現代社会の最低水準すら維持できなくなる未来を私たちは「震えて待つしかない」のかもしれない。

小松が意図して表現したのかはわからないが、本作で描いた遠景は、「人がいなくなる社会」という意味で、この国の本当の絶望を暗示していると解していいのだろうと私は思っている。

◆本作の結末から感じる現代人のある種の「病」

読み終えた後、本作の持つ根源的な作品としての力は、いささかも古くなっておらず、時代の試練に耐えうる作品だと感じた。

その理由は、本作の結末にあると思う。

ネタバレありと宣言しているものの、流石にそこまで書けないので、興味のある方は、ぜひ結末の「意外性」を体験してほしいと思う。

私は勝手に結末のイメージを持って本作を読んでいた。しかし、小松が自身を投影した「大阪府箕面市に住むSF作家」として、彼は本作の結末を意外な形で表現した。

抽象的に言うならば、「because」は実はそんなに必要ではないということだろう。それどころか、時にbecauseは、思考停止を誘発するブレーキとなるのではないか。

現代人は意外なほど思考が止まっている。

皮肉ではあるが知的エリート層ほと止まっていると私は感じている。彼らが成功者であることと無関係ではないからだろうが、それは、彼らが自然にbecauseを意識しているからかもしれない。

◆系統的に小松左京作品を読む意味と意義

私は、生涯をかけてアガサ・クリスティーの作品を読むことをライフワークにしているが、最近、それにフィリップ・K・ディックが加わり、じわじわとロバート・A・ハインラインが侵食してきているが、それに小松左京が加わりそうである。膨大な著作数もあり、大書から少しずつ今後も読んでいきたいと思っている。

小松の自身の想像力が生んだ連鎖は結果として体系化されているのではと感じるからである。可能な限り読むことでその思考の流れを理解したいと思った次第である。

(文中敬称略)








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