日曜日の本棚#45『アメリカの壁』小松左京(文春文庫)【SF界のレジェンドの冷徹な視点は、時代を超越し、私たちの課題を容赦なく突きつける】
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今回は、SF界のコンピューター付ブルドーザーとも言われる日本SF界のレジェンド・小松左京先生の『アメリカの壁』です。1977年発表の本作は同タイトルの作品を含む短編集です。
本作は、トランプ大統領誕生のとき、メキシコ国境に壁を作ると公言したこともあり、未来を予測したことで注目されたのだそうです。
壁を作ることを主張する大統領が空想の人物ではないという現代の視点で読むといろいろ興味深い作品でもあります。
作品紹介(文春文庫 作品紹介より)
40年の時を超えて大きな話題になった表題作「アメリカの壁」を含む傑作短編集。
1977年に発表された「アメリカの壁」に登場する孤立主義者のアメリカ大統領が、トランプ大統領を想起させることから、「トランプ政権 予言の書?」と新聞に取り上げられたり、ネット上で「いま読むべき作品」「現実がSFに近づいた」といった声が相次ぐなど、大きな話題に。
●「アメリカの壁」あらすじ●
ときは冷戦時代。ベトナム戦争以降のアメリカは国外問題への関心を急速に失いつつあった。「輝けるアメリカ」「美しいアメリカ」というスローガンを掲げて当選した大統領は、国内問題には熱心だが、対外政策はどこか投げやり。
そんなときアメリカは突然、出現した「壁」に囲まれ、外部との交通、通信が一切、遮断されてしまう。しかし、なぜか大規模なパニックは発生せず、「アメリカは生きつづけるだろう」と語る大統領のもと、アメリカ国民は意外に落ち着いていた。
「どう考えたって・・・・・・これはおかしい」
アメリカ国内に閉じ込められた日本人ライターは、そんな状況に不審に感じて調査を始める。
「アメリカは、“外”の世界に、ひどくいやな形で傷つき、萎縮(シュリンク)しはじめた。そいつは認めるだろ? 今の大統領は、その方向をさらに強め、妙な具合にカーブさせた。彼は “幸福な新天地時代”のアメリカのノスタルジイに訴え、そこからの再出発を考えているみたいだった」
「たしかにアメリカにとっては、“すてきな孤立”だ」
そして男がたどりついた真相とは。
所感(ネタバレを含みます)
◆現代も続く『アメリカの壁』が醸成するリアリティ。
表題作、『アメリカの壁』は、1977年に発表された。78年に日中平和友好条約が締結されており、日本が再び東アジアの一員であることを自覚する世論があったころだと推察される。
一方で、アメリカは、ベトナム戦争という「外」と、徴兵制断念という「内」の敗戦を甘受させられた時期でもある。
そんな雰囲気に包まれているご時世に「アメリカが孤立の道を歩んだらどうなるのか」というテーマを掲げられる小松左京のセンスは、やはり超一流であり、日本を沈没させるだけの作家だと感嘆させられる。
本作品(『アメリカの壁』)を通して描かれるのは、アメリカの奔放な思考と、あまりに対比的な日本人の思考の硬直性であろう。社会を見つめる視点の決定的な違いを痛感する。ここに読み解くべきであろう小松の危機感が投影されていると思う。
アメリカは、食料とエネルギーを自前で調達できる国家である。アメリカとはどんな国かと問われれば、この側面で語ることは可能である。このことを前提とすれば、壁を作って内側に籠ることも可能なのである。
可能であることがわかっていれば、小松の荒唐無稽な視点は自ずと必然的になり、トランプ大統領のようなメンタリティを持つリーダーの登場は視野に入ってくる。
一方で、この点においても真逆なのが我が国である。食料とエネルギーにおいての視点のなさは、絶望的ですらある。奇しくも米不足が露見しているが、そもそも主食とされる穀物すら自給できなくても何ら気にならないような農政を平然と進められる思考はアメリカにはないだろう。
未来はどうなるのかという思考が脆弱であるだけでなく、想定も甘い。これは楽観的というのとは違うだろう。思考の幅が狭いことからくる必然的な帰結ということなのではと思う。
思想家の内田樹は、政府要人の誰一人も、今この瞬間に日米安全保障条約を破棄される可能性をまじめに考えている人間がいないことを指摘しているが、そのような驚天動地などありえるはずがないという日本人を象徴している姿こそが、本作の主人公「豊田」である。
これは、なんとも示唆的なネーミングである。小松に何らかの「意図」があったと考えるのが自然な理解なのではと思う。
壁をつくることを実行しようとする大統領が実現した以上、本作の読みどころは、「豊田」がどうなったかという点であろう。
その点については、本作を読んでいただいて、自分が豊田ならどうしただろうかに想像力を発揮してもらいたいと思う。
また、アメリカがなぜ強い国家であり続けられるのかを小松は作中でこう表している。
小松は、ドライな視点でアメリカを切り出している。比して、日本人は、エモーショナルな何かに固執し、「感情の壁」を乗り越えられない。そんな日本人を本作で小松は冷徹に描いている。
本作を未来予測という観点で見ると、結末こそが最大の予言ではないかと感じる。
アメリカにとって、かつての日本は、「管理することが難しい国家」と思っていたと思われるからだ。
だからこそ、航空機開発を潰し、トロンを潰した。
そして、中国カードで揺さぶりをかけようとする稀代の政治家をあったのかなかったのかよくわからない汚職事件で潰した。
発芽した後では対応が間に合わない。小さな芽も妥協せずに徹底して潰す。ロックフェラーセンターは取り戻せたが、コロンビア映画は、取り戻せなかった現実は、アメリカにある一定の恐怖感を残したのであろう。
小松は、したたかに、かつ冷静に、そんなアメリカの焦りも分析していたのは間違いないと思う。それは、小松ら戦中派が誓った「次の戦いはこそは、アメリカに勝つ」という矜持であったのだと思う。
しかし、そんな思考は、対米従属しか頭にない世襲議員が3代目、4代目になろうとする現実の前には消えつつある。
本作の結末のような行動をとれる日本人は、もういない。その意味では、本作はファンタジー小説になってしまっているとも思うのである。
(文中敬称略)