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日曜日の本棚#3レイ・ブラッドベリ『華氏451度』(ハヤカワ文庫)【日常の視点を変える「危険な」本】

毎週日曜日に読書感想をアップしています。前回はこちら

今回は、レイ・ブラッドベリのSF小説『華氏451度』です。初版は1953年。テレビが社会に入り込んだ時代に、誰もが見ている方向とは違った角度で現実を見つめたブラッドベリのセンスが光ります。

映画化(1966年版)もされています。観た方は、傑作と絶賛されており、映画での視聴ありかもしれません。

ウキペディアによれば、ブラッドベリは、テレビによる文化の破壊を「主張」として書いたと述べているそうですが、その通りのテレビへの痛切な風刺が本作の魅力です。また、それがインターネット時代にも当てはまり、現代にもなお存在感をもつ作品だと思います。

あらすじ

華氏451度──この温度で書物の紙は引火し、そして燃える。451と刻印されたヘルメットをかぶり、昇火器の炎で隠匿されていた書物を焼き尽くす男たち。モンターグも自らの仕事に誇りを持つ、そうした昇火士(ファイアマン)のひとりだった。だがある晩、風変わりな少女とであってから、彼の人生は劇的に変わってゆく……本が忌むべき禁制品となった未来を舞台に、SF界きっての抒情詩人が現代文明を鋭く風刺した不朽の名作、新訳で登場!
(早川書房の紹介文より)

70年後の未来を言い当てた作家の想像力

私たちは皆、1953年のブラッドベリから見たら未来人です。未来人たる私たちは、彼の予言通りに振舞っていると言っても過言ではありません。

十九世紀の人間を考えてみろ。馬や犬や荷車、みんなスローモーションだ。
二十世紀にはいると、フォルムの速度は速くなる。本は短くなる。圧縮される。
(中略)
古典は十五分のラジオプロに縮められ、つぎにはカットされて二分間の紹介コラムにおさまり、最後は十行かそこらに梗概となって辞書にのる。

私たちは、倍速で映画を観て、中田敦彦さんの動画を観て、『罪と罰』も読んだ気になっています。

また、主人公・モンターグの妻・ミルドレッドは、仮想空間でのドラマに溺れ、一緒にドラマを作りあげる仲間を家族と呼んでいます。メタバースが日常に入り込んだらまさに、世界中にミルドレッドが出現するのでしょう。ミルドレッドが身に着けている「巻貝」は、すでにワイヤレスイヤホンとして私たちは手に入れています。

結果として権力の愚民化政策をも予言した

ブラッドベリは意図していなかったようですが、結果として権力の愚民化政策をも予言することになりました。
モンターグの上司・ベイティーは、

就学年限は短くなり、規律はゆるみ、哲学、歴史、外国語は捨てられ、英語や綴りの授業は徐々に遠ざけれ、ついにはほとんど完全に無視されてしまうだろう。時間は足りない、仕事は重要だ、帰りの道ではいたるところに快楽が待っている。ボタンを押したり、スイッチを入れたり、ボルトやナットを締める以外に一体何を学ぶ必要がある?

と言ってモンターグを挑発します。

哲学だの社会学だの物事を関連付けて考えるようなつかみどころこのないものは与えてはならない。

勉強はすぐに役に立つものを学ばせろ。国語に小説はいらない。実用文を読めるようにしろ。英語のテストに文法も英作文もいらない。長文とリスニングだけにしてしまえ。教師にはもっと効率的に学ぶように仕向けさせろ。生徒のテストの点数が悪い教師は無能だ。ボーナスを減らせ。
仕事は、バーコードリーダーをピッとするだけだ。基本的人権など目に触れさせるな。権利の行使には罪悪感をもたせろ。権利は義務を果たさないと持てないと思わせろ。間違っても天賦人権論なんか知らせてはいけない。生活保護を求めてきたら、窓口で追い返せ。消費税が不平等な制度だと思わせるな。平等な税金だと信じさせろ。

という感じの現代はなかなかのディストピアですね。

本作は、ディストピアが現在進行形であることを教えてくれる小説でもあります。ディストピア小説の代表作『1984』とはこの点で一線を画すと思います。

視点を変えると私たちは、ディストピアを生きていると気づいてしまう。その視点を授けるという意味で「危険な」本なのかもしれません。

私が権力者であれば、真っ先に燃やせと命ずる本の一つかなと思います。

やっぱり一億総白痴化に向かわせるテレビ

社会学者・大宅壮一は、白痴という過激な言葉でテレビの恐ろしさを警告しました。もはや引き返すことのできる点は過ぎたのでしょう。テレビタレントが政治を語り、権威にすらなる。テレビは、感情を掻き立て、思考を停止させる。そんな「機能」を権力が見過ごすことはないということなのでしょう。

国民には、記憶力コンテストでもあてがっておけばいい。
ポップスの歌詞だの州都の名前だの、アイオワの去年のトウモロコシ収穫量だのをどれだけ覚えているかを競わせておけばいいんだ。ただし、国民が自分はなんと輝かしい情報収集能力を持っていることか、と感じるような事実を詰め込むんだ。
そうしておけば、みんな、自分の頭で考えているような気になる。動かなくても動いているような感覚が得られる。それでみんなしあわせになれる。なぜかというと、そういうたぐいの事実は変化しないからだ。

この国の最高ランクとされる大学の学生の一部は、テレビにでて東大王ともてはやされています。クイズ番組を通して、彼らは何かを知っていることが意味を持つと信じさせていればいいというプロパガンダをしているとも言えなくもない。

情報に触れておけば、自分の頭で考えているような気になる盲点は、フェイクニュースの流布につながっているのかもしれません。

現実をも飲み込むテレビ。それに代わるインターネット。真実はどこに?

後半、追われる身になったモンターグは、自分自身がテレビの素材になっていくことを実感します。テレビの生贄なった主人公。これは現実にも起こっています。STAP細胞をめぐる理化学研究所の女性研究者の件を思い出さざるを得えません。あの方はモンターグの気持ちがよくわかるのではと思っています。

ラストは、シニカルにテレビが真実を伝えないことを示唆します。

ブラッドベリは、それがテレビの真実なのだと言いたいのでしょう。米トランプ前大統領は、自分に批判的なメディア、とりわけCNNに対して攻撃を強めました。テレビが真実を伝えない一面がある事実は、トランプ前大統領の言い分にお墨付きを与えたと思っています。日本でも安倍元首相と朝日新聞の関係でも似た構図がみられます。

インターネットは見たいものをみるメディアです。孤独な老人をネトウヨに育てる機能も持っています。真実はネットにあると信じてしまい、真実は隠されているという疑心暗鬼が陰謀論にハマってしまう人を生み出します。

真実はどこにあるのか、私たちは、わからなくなっている。新聞でもテレビでも、ましてやインターネットでも真実は見つからない。

私たちは、そんな時代を生きている。それを自覚するだけでも、ちょっとは救われるのではと思います。

だからこそ、本を読み、時代を超越して残ったテキストに触れる意味と価値があるのかもしれません。

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