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森毅先生の教えに学ぶ(5)【子供たちのためにも先生にデレーっとする権利を!】

今日は国立大学の入試日ですね。受験生の皆さん、普段の勉強の成果が発揮できるよう心からお祈り申し上げます。

京都大学の故・森毅先生の本から現代を考えています。

今回は、P123から

学校は、もっとだらしなく、雑然としているのがよい。すっきり、むだなく整理されているより、何度も聞きあきた話にあくびしたり、日ごとに様子が変わったり、そうした無駄を楽しめるのがよい。文化というのは、そうしたものだと思う。
いま学校に求められるのは、なによりもこうした文化の姿だと思う。(中略)人が学校に向けて、さまざまの身のこなしをとることがなさすぎる。ぼくの身のこなしについては、デレーとしましょうと言うにつきるが、その「デレーとしましょうよ」という話をするのに忙しくて、本人はデレーとしておれない、という大矛盾に対面している。

子どもたちの不登校の問題は、年を経るごとに深刻になっているように思います。
神奈川県鎌倉市は、不登校向けの学校をつくるのだとか。

不登校の問題は、不登校になる生徒(児童)の問題だけではないと常々思っています。それは、学校が「ちゃんとしたところでないといけない」という社会圧が、学校を息苦しくし、そのことが学校の先生を追いつめていることも影響があるのかなと感じます。

今の学校に森先生が指摘されるような、デレーっとした先生があまりいなさそうな気がするのは、自分だけではないでしょう。本来はデレーっとしている方も、学校ではしゃっきとしているように見せないと先生として居場所がないのであれば、これは、誰得?な世界とも言えるのかもしれません。

先年、亡くなられた大林宣彦監督の尾道三部作の『時をかける少女』や『さびしんぼう』で岸部一徳さんが演じられたような、高等遊民気質の先生は、今はどの程度いらっしゃるのでしょうか。

また、『さびしんぼう』では、岸部さんが演じる教師が、主人公ひろき(尾美としのり)たちが理科室の備品でつくった作ったすき焼きをくすねるシーンがありますが、そのような緩さは、たぶんないでしょう。

個人的には、学校の先生は、今の社会が求めるほどには、ちゃんとしてなくていいんじゃないかと思うのです。というのも、先生がちゃんとしていればいるほど、子どもたちは、息苦しく、居場所を感じられなくなるのではと思うのです。当然、子どもたちの中には、ちゃんとしてない子どももいて、そのような子どもに居ていいんだよというメッセージは、いろんなタイプの先生がいることではないかなと思います。

学校には、デレーっとした先生もいるなら、まあ、行ってもいいかなと救われる児童・生徒もいるはずではないでしょうかね。

鎌倉市の取り組みは、悪くはないと思いますが、何でもかんでもハード的な思考になっているのが気になります。
ちゃんとしている先生たちが一生懸命話し合って、「不登校向けの学校をつくろう」ということになっているのであれば、なんか方向性が違うような・・・。

デレーっとした先生を認めない空気はちょっとよどんでいるような気がしませんかね。そんな空気はタモリさんがおっしゃる「新しい戦前」に繋がっているのではと思うとちょっと不気味な気がします。


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