生徒の正統性は何処にあるのか──校則改正に関連して
1.はじめに
学校における校則改正の多くは、生徒の政治的有効性感覚を身につける一環として行われることが多い。そもそも、校則自体が教育的意義を持っている。生徒指導提要を引用して確認する。
このように、児童生徒の発達成長のために設けられている規律であって、校則の存在意義を教育に求めていることは明らかである。その上で、昨今のブラック校則の解消のため、校則改正が一大風潮となっている。実際、生徒指導提要でも強く求めている。
上に掲げたように、生徒の声を入れることが明記された点は非常に大きく、子どもの権利条約の内容とも整合性のとれる記述となっている。
しかし、生徒の声をどのように反映させればよいのだろうか。例えば、一部の生徒の声を聴いたら、それは「生徒の声を反映した」と言えるのだろうか。そこで、校則改正に関する先行研究を批判的に検討し、どの段階で生徒の声が正統性を持っているのかを明らかにし、そのような仕組みに対する問題点を明らかにしようと思う。
2.先行研究の紹介──安田女子中学高等学校の場合
ここでは、校則改正の事例とした頻繁に取り上げられる安田女子中学孤島学校の事例を用いたいと思う。この学校の事例でひときわ目を引くのがNPO法人カタリバや弁護士・研究者など、外部の人が介入している点であり、ほとんどを生徒主体で進めている。だが、事細かく見るのは大変なので、大きな生徒の動きだけに絞ると、1)活動に参加する生徒を募集する、2)見直してほしい校則について全校生徒の意見を募る/選定・発表する3)調査を実施する、4)新校則や解決策を練る、5)提案する、という過程を踏んでいる。なお、末富(2022)では、教員側で一部修正した修正案に対して生徒と対話する機会が設けられている。ここでの生徒は明らかでないが活動に自ら参加している生徒のことを指すと思われる。
このうち、全校生徒が関わっているのは、見直してほしい校則と調査のみであり、それ以外はすべて有志生徒の意見が反映されている。ここで、生徒を2つに分類する。活動に参加する生徒のことを「有志生徒」と呼ぶ。一方で、それ以外の生徒を「一般生徒」と呼称する。したがって、有志生徒は自らの意思で参加を決意しているのであり、一般生徒を代表しているわけではないため、有志生徒のみの議論はカリスマ的支配としての正統性を有していても、合法的支配としての正統性は有さないこととなる。すなわち、筆者が志向するのは大衆民主主義であり、多数派の同意をもって正統性が担保されると考えている。以上を踏まえて、有志生徒の議論における正統性がどのようについているのかを確認したい。
2-1.見直したい校則の選定にかかる正統性
この事業をするにあたって、活動に参加したい生徒(=有志生徒)を募集し、彼女らを中心に改正したい校則を公募し、選定作業を行っている。その際の選定基準は古田(2022)は明らかにしておらず、当該学校について扱っている末富(2022)も明らかにしていない。
これを明らかにしなければ、有志生徒の議論が机上の空論になりかねず、そこで、公募において「なぜ、その校則を改正したいのか?出来事を書いてほしい」という改正事実を記載する欄があった場合とない場合、選定作業において、選定基準に改正事実があったのかどうか、の2つの基準に分類して、どの場合に正統性があるのかを考えてみた。
1)と表記している「改正事実あり/選定基準あり」の場合、改正するべき問題があることを踏まえ、それを基準に盛り込むことで考慮しているので、有志生徒の議論は一般生徒の声を確実に反映し基盤にしているので、十分な正統性を持つ。
2)である「改正事実がない/選定基準あり」の場合、改正するべき問題がない(もしくは見落としている)にも関わらず選定基準に含まれているため、選定基準が死文化しているか、見落としという過失を補うために、これを機能させようとして有志生徒の経験に基づいた改正事実で代替する可能性がある。
前者の死文化の場合では、改正事実がなく選定基準がない4)の状況と同じになるため、このプロジェクト自体の存在意義が揺さぶられることになり、社会的意義はなく教育的意義のみが残存する。後者の場合は、有志生徒による改正事実の存在は1)に変化させるものであるが、果たして大多数の人に共通する改正事実なのかは疑問である。
3)の「改正事実あり/選定基準なし」の場合、改正するべき問題があるにも関わらず、それを無視して選定しているわけなので、これは有志生徒による考慮不尽であって裁量の逸脱・濫用となる。すなわち、有志生徒による議論は無効となる。
4)の「改正事実なし/選定基準なし」の場合、改正事実がない(もしくは見落とされている)にも関わらず、選定基準に含まれていないために、校則を改正する意義は教育的目的になってしまい、このプロジェクトにおける「皆が幸せになるルール」をつくるという社会的意義は形骸化することになる。仮に見落としていた場合には、3)の状況と同じになり、有志生徒の裁量は逸脱・濫用となり、議論は無効となる。
このように、改正事実の有無や選定基準に含まれているかどうかをけんとうすることは、考慮するべきものが考慮されていない考慮不尽やプロジェクトそのものへの疑義を露呈させるものとなることがわかるだろうか。では、その後のアンケートが問題ある正統性にどのような補填をするのだろうか。
2-2.アンケートが提供する正統性のための裏付け
改正したい校則を選定したのち、有志生徒を主体に調査を実施する。その際に、前節で示した4つの状況の場合に、アンケートがどのような機能を果たすのか検討したい。
1)の「改正事実あり/選定基準あり」の場合、すでに選定時の議論が正統性を持つものであるため、調査は問題所在をより深め、生徒の理想を聞きそれを具体化する過程であるといえよう。
2)の「改正事実なし/選定基準あり」の場合、より細かく2つに分類できる。第一に選定基準が死文化してしまっていた場合、社会的意義がないため調査をしても何の問題は出てこないし具体化する必要性もないため、全く意味のない調査となる。第二に、見落としの場合、有志生徒の経験談に基づいた改正事実によって、1)の「改正事実あり/選定基準あり」に変化していることから、この改正事実が大多数に該当するのかどうかを調査することが至上目的となる。その上で、確定的な改正事実がある場合は理想的な法整備のための調査を行い、そうでない場合にはその後の調査は大きな意味を持たず正統性はない。
3)の「改正事実あり/選定基準なし」の場合、選定過程そのものは裁量の逸脱・濫用となり議論自体が無効となるのだが、この問題に気付かないままアンケートを実施した場合、構造的な根深い問題があることをいずれにせよ知ることとなり、実質的な2)の「改正事実なし/選定基準あり」における見落としの場合での確定的な改正事実の存在の場合、もしくは、1)の「改正事実あり/選定基準あり」における状況と酷似する。
4)の「改正事実なし/選定基準なし」の場合、社会的意義がない場合は、生徒が主体になって校則見直しを行う必要がないため、調査以降の意義はない。逆に議論が無効となっている場合、調査によって改正事実を知ることになることから、3)の「改正事実あり/選考基準なし」で触れた同様の状況となる。
このように考えると、アンケートは一部を除いても、議論過程では存在しなかった改正事実を見つけ出す機能を果たしており、正当性を代替していると言えよう。では、その後の過程にある精緻化としての議論はどこに正統性を見出せるか考えてみたい。
2-3.精緻化の過程における議論の正統性の存在
調査を基盤にしながらつくった校則案作成の議論は、それなりの正統性をもつものの、問題は作り上げられた校則が果たして正統性を持つのか、すなわち、全ての生徒の意見が反映された結晶として実効性を持つかどうかが問題となる。修正案の議論も正当性を持つかどうかは微妙であり、これらを一体化した者ものが、おそらく実際に施行された場合か、実験によって裏付けられることによって検証されるものと思われる。
もし実験で成功した場合には、そのまま施行する証拠となり施行され効力を持つことになるだろうし、失敗すればそれはエリート間の議論に正統性がなかったことになり、修正を迫られることとなり、再び大衆に適用させ、を繰り返すことになる。仮に実験しなかった場合は、校則の遵守性がエリートの議論に正統性を持たせるかを決めることとなり、仮に失敗した場合は、教師はこれをトラウマとして再び、教師主体の校則改正になるかもしれない。
私見にはなるが、このようなプロジェクトにおいて失敗は許されない。なぜならば、失敗することは旧態への回帰を志向する言説への理由づけとなるし、これに対抗するにも「単なる挑戦させてください」や改善点を挙げても、最終的には教師側の心の器の大きさの問題となる。結果、旧態へ回帰するどころか、さらに地獄をみることになるため、可能な限り失敗は避けるべきこととなる。そういう意味でも、重大な問題を引き起こす前に修正が可能な実験を行う方が、より円滑に校則改正を踏むことができるように思う。
3.真の民主主義──草の根とエリート
このようなながれを辿ると、有志生徒は自らの意見を表明し議論ができる秀才的側面を持つ「エリート」であり、一般生徒はそうではない「大衆」であると言えそうだ。この関係が次のような構図で展開してきたと思われる。
はじめに、エリートとなる生徒を選出したうえで、エリートと大衆の間で往還することによって、校則改正を実現してきたと言える。それはまさに「エリート民主主義」であり、それを「生徒主体」としてあるべき民主主義としてきたことになる。しかし、これは果たして正しいことなのだろうか。
民主主義は多数派の意見を聞くものであるし、少数派の意見を聞くものでもある。その場合、大部分の裁量がエリートにあるのはとても望ましいとはいえない。しかも、今回のエリートたる人たちで構成された組織は、生徒会の下部組織にある委員会と同等の組織として生徒会顧問が、プロジェクトリーダーを務めている。位置づけはよくても、これでは生徒会執行部はおろか、その他の委員会の機能を度外視していると言わざるを得ない。生徒会活動・委員会活動は1951年のGHQの指導によって、民主的活動をすることが求められ、2015年以降の文科省通知によって主権者教育の一役として生徒会活動が担うこととなったのだ。その趣旨を現実に生かせていないのは問題視されるべきことように思われる。
今回の安田女子中学高等学校は、プロセスこそ「生徒」が中心であるとはいえ、生徒の声を受けて校則の見直しが行われたわけではなく、むしろ「学校主体」によって開始されたものであることを忘れてはならない。結局「学校主体」でしか校則の見直しができないのであれば、それは児童生徒の学習性無力感を生むだけである。
それならば、生徒の声で校則の見直しができる「草の根の民主主義」を確立する必要性があるのではないだろうか。その声を受け止め動くのが生徒会であり、委員会でなければならない。せっかくある組織を活用し、継続的に校則を見直す環境を醸成することが必要なのではないか。
参考文献
末富芳(2022)「学校という『公共圏』と校則見直し──『皆が幸せになる
ルールをつくる』マネジメント職のリーダーシップ」内田良・山本宏樹編
『だれが校則を決めるのか 民主主義と学校』岩波書店、75-103頁。
古田雄一(2022)「生徒参加による対話的な校則見直しの市民性教育効果と
課題──安田女子中学高等学校『ルールメイキングプロジェクト』の事例か
ら──」『国際研究論叢』35(3):97-116。
文部科学省(2022)『生徒指導提要』。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?