主催者の自己紹介記事の準備 #5
自己紹介記事の続きです。今日も好きな本を紹介していきます。
今まで書いた自己紹介記事
大塚英志『アトムの命題 手塚治虫と戦後まんがの主題』
物事は「問題設定⇒回答」の流れですんなり進むのだろうか。
きれいに整いすぎている理論を読むとスッキリすることがあるが、それと同時になんだかふつふつと違和感のようなものが湧いてくる。リアルはそんなにスッキリいくものなのか、言葉で現実って表現できるものなのかと思ってしまう。このきれいに整いすぎている理論や説得力に対抗するのが文学だとぼくは考える。
生きていくとある「屈折」を抱えてしまう。その屈折をどうにか言葉にすると一見よくわからない、よみにくいモノができる。しかし、それが情報ではなく生きている言葉である。
大塚英志のリアリティはこの屈折の中にある。おたくとはこの屈折したもの抱えてしまうところにあるのだ。
本書は日本のまんがの起源を太平洋戦争の戦時下においている。もともとディズニーのパクリでしかなかったまんがが戦時下の屈折を経て戦後まんが拡散していった。まんがの起源が日本語(漢字―表意文字―絵、とかな―表音文字―文、と併用している)にあるという主張を退けている。
なぜ、その主張を退けるのか。それは「まっすぐ」であるからだ。その主張はなぜ日本でまんがが流行っているのか説得力がある。だからこそ違和感があるのだ。
多分まんが以外の表現だって屈折の中から出てきている。ぼくらの現実は屈折の中にあるのだ。
フィリップ・K・ディック『ヴァリス』
ユダヤ、フリーメーソン、Qアノン、などなど世界にはさまざまな陰謀論が飛び交っている。陰謀論を信じてしまう理由は、「あれ?この世界なんかおかしい?」という疑問からだろう。それはある意味、不幸である。
しかし今の時代、『ヴァリス』の登場人物であるディックの分身、
ホースラヴァーファットのように世界に不幸が多い理由を宇宙の起源、その先の存在の起源に求める人は少ない。
この小説は、大量の情報が整理されずに語られており、また、どこまでが現実でどこまでが狂った妄想なのか判別のつかないような、内容となっている。友人の自殺をきっかけに主人公は狂い始め、その狂った部分を主人公の名前とは別の名前をつけ、その部分について記述し始める。つまり、不幸をきっかけにして「書いている自分」と「書かれた自分」に人格分裂してしまう。そのことに主人公は苦悩し、その狂った部分は主人公から離れ奇妙な神学思想を作り上げ、世界・宇宙の成り立ちを記述し始める。
このように狂った世界観を提示しており、その世界観の記述が殆どを占めている。しかし、行き過ぎた世界観にとどまるわけではなく、離れてしまった現実とどう折り合いをつけていくのかまで書かれている。