二冊目『カフカからカフカへ』モーリス・ブランショ 感想
ブランショを読んでいるとなにか気が狂いそうになる瞬間がある。この狂いそうな感覚はあの彼岸の入口が見えそうになるからである。われわれに必ず訪れる、しかし絶対に到達できない「死」。それを「書くこと」の空間へ見出している。怖くもあるが、そこに触れそうになる時とてつもない快感が押し寄せる。
カフカは好きな作家であるが、この本を読むとカフカについて一言も言えなくなってしまう。カフカに対して何かを言うこと自体がカフカから離れてしまうからである。
この本ではカフカ自身が何も至らなかったことを極限まで語ることで、カフカ自体への至らなさを語るというまわりくどいやり方をとっており、難解さはそこにある。
作家と作品は分離されているものである、しかし我々は作品について考える時、作家など何かあるものに集約させてからでないと考えられない。作品の豊穣さをぼくら人間には理解できる能力はない。
『カフカからカフカへ』の冒頭に置かれている「文学と死の権利」はサルトルの『文学とはなにか』への批判がこれでもかと書かれている。本当に、笑ってしまうぐらいてんこ盛りなのである。
何を批判しているのかというとサルトルの文学の効用をアンガージュマン(engagement)に絞っていることを批判している。アンガージュマンとはフランス語で「参加」という意味があり、文学上ではそこに言葉がなかった概念に対して、言葉を付与し世界に表出させる運動でもある。サルトルはこれを「言葉の病を治癒させる」と言った言葉で表現している。
これは例えばLGBTQなど社会へ承認されていない問題を抱えている当事者が社会変革のために言葉で思想を伝える。これもアンガージュマンの一環である。以下はライターの坪井里緒の映画『怪物』評から抜粋した。まさにどのように言葉でアンガージュマンに達するか書かれた文章である。
ぼくとしても文学のアンガージュマンという役割は、社会の多様性を確保するためにも大事だと思う。もしぼく自身のある悩みかかえているとして、その悩みが社会に承認されず、生きづらいと思っているのであるのならば、言葉によってその悩みをこの社会に表出し、接続し、承認してもらう回路は確保したいと思うからだ。
しかし、ブランショは文学のこの役割を認めつつも、もう一つ側提示する。文学のアンガージュマンが夜の世界から昼の世界へ移行する運動であるのならば、もう一つの夜の世界、それが死の世界があると、ブランショは言う。
アンガージュマンは読む段階に現れる。作家が言葉を書き、その言葉を複数の他者が読み解釈する。その言葉が社会化、歴史化する瞬間は、解釈によってである。しかし、書く段階に於いてはどうだろうか。なにかを書くとき、作家はある目的、意識のもと書き始めるが、書いている段階で複数の声を聞くことになる。「書くことで目的を達成させろ」「いやどうせこんなこと書いても誰もみてくれない」「別のことを書け」「やっぱりもとの本筋が大事だ」「いやこの本筋はくだらない」「真実のために書くのだ」「真実になるために書け」「虚偽であれ。なぜなら真実などない」などの声が聞こえてくるので、書くことはコントロール不可能である。その中で作家は非人称的になり、中性的になるのだ。ここをブランショは死の空間と呼んでいる。
この死の空間は社会化、歴史化されることはなく、それらの周りを迂回し続ける。以下の引用のように書くことの快楽はこの死の空間からきているような気がする。
ぼくはひとつブランショに反論があるとすれば「読むこと」も死の空間ではないのかということだ。読むことも複数の声を聞きながら、その瞬間瞬間では全く別のことを考えながら読んでいる。読むこともコントロール不可能である。しかし、読んだあと解釈によって読むこと豊穣な部分をすべて切り捨ててしまうのである。社会化、歴史化されるのは読んだあと解釈によってである。
アンガージュマンと死の空間は以下のようにまとめることができる。
・アンガージュマン ⇒ 解釈 ⇒ 対象を突き刺す言葉
・死の空間 ⇒ 読むこと、書くこと ⇒ 対象を迂回する言葉
言葉の機能、役割はどちらかひとつではなく2つ存在する。ぼくも、アンガージュマンと死の空間を行ったり来たりしながら書いてみたい、読んでみたい。