【62】仮面が守りきれない瞬間 #睡沢週報
ピエロが苦手だ。いわゆる「ピエロ恐怖症」ではない。小さいころはむしろ好き寄りだったくらいだ。
小学校低学年の夏だったと思う。家族に連れられてアミューズメントパークを訪れた際にピエロがパフォーマンスをしていた。幸運にも私は指名されてピエロにバルーンアートのリクエストをさせてもらった。
ところが、当時の私は根っからの爬虫類好きで、「アナコンダ!」「ステゴザウルス!」「イグアナ!」と無理なリクエストをした。お手上げだったのだろう、ピエロは私が犬をリクエストしたことにしてプードルを作った。
今思い返せば申し訳なくなる話だが、子供目線に「どの動物がバルーンアートに適しているか」を見抜いて忖度することなどできようはずもない。しかし、ピエロは苛立ったようで、
「このガキ……」
とマイクに乗らないギリギリの声量でぼやいたのだ。
衝撃だった。その言葉に込められた怒気が私に「何かを間違えたのだ」と確信させ、途端に先ほどまでおどけていたピエロが恐ろしいものに見えてきた。私は彼の仮面を剥ぎ取ってしまったのだ。
見えない仮面が揺らぐ時
人は誰しも仮面を被っている――などという話は、今さら臨床心理学を引用せずとも広く知られていることだろう。仮面で素顔を隠すこと自体は何の間違いでもない。
しかし、見せたい仮面の下には素顔があり、その素顔は動揺や興奮によって垣間見えてしまう。
私見を述べてもよいのであれば(これは私の週報だから私見しかないのだが)、不意の露出が許される寛容な社会であってほしいと思う。仮面が揺らぐほどの情動が生じた、その事実をまずは認めるべきだと。
しかし、それはそれとしてさっきまでにこやかだった人が仮面の裏にある怒りを露わにするのは怖い。ピエロにボヤかれて小学生の私は軽くちびった。
だってピエロだぞ? ひょうきんで滑稽、いつも愉快なお友だちだぞ? そのピエロにガキ呼ばわりされようものなら、もう明日は来ないんじゃないかとすら思える。
接客におけるホスピタリティにある程度の水準を求めたい私と、職業倫理が認める最低限を満たしていればそれでよいと言いたい私。心がふたつある。
『ナポレオン』と皇帝の仮面
リドリー・スコット監督『ナポレオン』を観てきた。今月はとても忙しいから、この日が最後の「娯楽の日」になるだろう。
結論から言えば、いい映画だった。ナポレオンと彼が愛した女性ジョゼフィーヌを中心として、歴史を後景に置いたヒューマンドラマ。派手というよりは重さのある、上質な作品だったと思う。
今日の週報はこの映画のネタバレを含む。
史実でも行われた、エジプト遠征からの帰還。これを本作は「ジョゼフィーヌの浮気を知ったナポレオンが怒りに任せて帰国した」という解釈で描いている。しかし、彼は政府首脳陣の糾弾を堂々と打破してもいる。
本作のナポレオンは一貫して愛情深く繊細で不安定な私人であり、その彼が野心に従って戦ううちに公人として、つまり英雄、皇帝としての仮面を身につけていく。
ワーテルローの戦いで敗北したあと、英国の軍艦で士官候補生たちに教訓を垂れるナポレオンは敗将とは思えないほど立派で、どこか滑稽だ。それは彼の仮面がもはや地位と一致していないからだったかもしれない。
ワーテルローの戦いでナポレオンの仮面を強く感じさせられたシーンがある。ウェリントン公アーサー・ウェルズリーが突撃したナポレオンを単眼鏡で観察しながらこう呟くのだ。
「ナポレオンはまともに戦えていない」
ナポレオン軍の突撃に対して連合軍は方陣を組み、騎兵は突破できずに次々斃れていく。歩兵と連携して前進したナポレオンすらも軍刀を振り回すばかりで、身を守るのがやっとの有様だ。
もはや、ナポレオンは英雄ではなかった。
敵将ウェリントン公は白馬に跨るナポレオンが仮面を取り落とす瞬間を静かに見ていた。私はこのシーンがとても好きだ。ナポレオンという熱狂が終わったのだと、強く感じさせられた。
この映画は劇場で観ることができてよかったと思う。
チャットなんか見てられない
仮面が剥がれる瞬間は私にもある。
仕事の連絡を取る時、最近はメールよりもチャットアプリを使うことのほうが多い。LINE、chatwork、slack、相手に合わせて様々なツールを使うことになる。
必然的にそれらの通知がいつでもキャッチできる状態にしておかないといけない。PCにもスマートフォンにも通知が届くよう設定し、毎日確認漏れがないかチェックする。
しかし、私にも生活がある。寝食をおろそかにしたくはないし、運動も継続しているし、家族の介護や自分の勉強も手を抜けない。
いつ飛び込んでくるかわからない仕事の連絡をまめに確認しているのは、あくまで私の打算的な親切心によるものであって、そういう契約を交わしているわけではないのだ。
先方から週末になって「来週まででいくつか案を出してほしい」と言われるような典型的な外部委託トラブルは私も幾度となく経験していて、そのたびに仮面が剥がれかけるのを感じる。
それでも生活を安定させて創作活動に集中するためには支払う必要があるコストだ。そう言い聞かせてZOOM越しの笑顔を振りまく私、めちゃくちゃ偉いな……。