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あなたは神を信じますかパラドックス


「神を信じるか」「神はいるのか」お正月に家族で実家に集まったときに、こんな話になってしまいまして。

私はふだんからスピリチュアルなことや、非二元の探求に最大の興味があるので、ふいに精神世界について話をふられると、ついつい語ってしまいたくなるのです。

でも概念の話になるので、こう言う精神世界の話はよほど人を選んで話さないと、自分自身が傷つくことになります。うっかり語ってしまうとだいたいの場合は「なに言ってんのかしらこの人」あるいは「大丈夫かしら」なんて言われてしまいます。

いくら兄弟姉妹とはいえ、慎重に慎重に(笑)



神はいると信じるもの、いないと言いきるもの


結論から言えば、私はいわゆる一般的な『神』はいないと思っています。それはストーリーの中の存在で人間の創造。そう思っています。

しかし、人が「神」と呼んでいるものはあると思います。それはスピリチュアルで言うなら宇宙やワンネスで、非二限的に言うなら「それ」「いのち」のことを言っているのだろうな、と思っています。

神の定義はその宗教や教えや個人的な概念なので、固定されたイメージはなくて、あるとすれば各々が思い描く「偶像」が共通なのかな、と思っています。

とはいえ、私も子供のころは天国に白いひげをはやしたおじいさんのような神様や、雲のうえにキラキラのオーラをまとった女神様がいると思っていましたよ。

姉は、どちらかというと「白いひげの神様」的に人格を持った神様がいるように思っていたみたいです。

善悪で言えば「神様」は善。善行を行えば味方をしてくれる。悪さをしたり、悪いことを考えるとバチが当たる。心から祈れば奇跡をおこしてくれる。社会や世界で悪いことをする人たちには天罰をあたえてくださる。だからいつも心清く、些細なことなら我慢して、努力して、勤勉に働いて、つましく生活していれば、きっといつかいい事があるから、みたいに考えているようです。

まあ、だいたいこんな感じなのでしょう。かつての私もそんなふうなイメージでした。神とまでは言わなくても、在り方としてそう思ってましたし。

だから、いろんな感情や湧いてくる思考を無理やりおさえこんでしまって、結果こじらすことになってしまったんですけど(笑)

それで、私が「神はいないよ。天使も魂もないね、たぶん」と言い切ったときに姉はちょっと戸惑った表情をしていたのを覚えています。

もちろん「神はいないけど、私が思うに『神』とは…」とつなげるはずだったんだけど、彼女の戸惑いの表情から

(そ、そんな神をも恐れぬことを言って大丈夫なのかしら、この子)と思ってるんだろうなーという雰囲気を感じとりました。無理もない。

「ま。まあ、信じるも信じないも個人次第なので、なんでもいいと思うけどね。宇宙そのものが神ってことじゃない?それと良心的なことは自分の中にあるよね」と言う落としどころを見つけて、その時はそれ以上の話はしませんでしたね。

どちらも、個人による「概念」なのでべつに自分が正しいと主張するほどのことでもないけど、姉妹でも考えかたが違うんだなあ、とつくづく思うのでした。

「神」についての主題をとっても、姉妹でこんな感じなので、これが78億人分の「概念」があって、それぞれに世界観があるわけなんですね。

で、「信じる」と言う言葉について思うことがあったので、書いておきたくなりました。



「信じる」という言葉には同時に「疑い」が隠されている


この現象世界は二元の世界なので、すべての事象は同じラインの中の「善悪」「優劣」「上下」「勝負」「正誤」などに分けられます。

普段は話題にならないような事象のライン上でも、個人単位では何かしらのジャッジメントがあります。

同じ映画やドラマを見ただけでも、感じ方がそれぞれに違うわけですから。

でも

「信じるか」「信じないか」って話になるとなんか少し違うような気がするのです。

例えば、よくあるドラマのエピソードで教室で給食費がなくなって誰かが疑われて「ぼくはやっていない!」と言う子供に「わかっているわ、先生はあなたを信じてるわ」って場合の「信じる」と、「神を信じる」の「信じる」はべつものだと思うんです。

この場合の「信じる」って信じていない場合があるから出てくる言葉です。こういう信じることって、空気があるのと同じくらいあたりまえにならないと、話題にも思考にも上がってこないわけですから「神を信じている人」が自分で「信じている」と言うのは、心のどこかに「いないかもしれないから信じる(という努力?をする)」ってことです。

だから、この場合の「信じる」という言葉は、言葉のパラドックスでもあると思うんです。

ほんとに信じていれば、それそのものが当たり前なので、それについて考えることすらないと言うことなんです。あたりまえすぎると概念上にも上がってこない。本気で信じていれば「あなたは神を信じますか」と言う質問に対して「?????????」になると思うんです。

「信じるも信じないも、だって、いるじゃないか!」何言ってんだ?って顔されてしまいます。それが本当に信じている人の反応です。

でも、あくまでその反応は質問をした側からみての反応です。信じている本人には「へんなこと聞く人だなあ」くらいですぐに忘れられてしまいます。

言葉ってややこしいですね。

これが、非二限のスピーカーさんたちが「私はいない」「個人(私)には絶対にわからない」って言うのに似ていると思うんです。


だって「思考の外」のことなんですもん


人間は「知っていること以外、知り得ません」。

これも当たり前のようで、何いってんだ?ってなるパラドックスっぽい言葉です。でも、スピーカーさんたちの話を聞いていると、それ以外思いつかないんです、個人としての「私」には。

「私」の知らない話をしている。私がどれだけ、言葉で説明を聞いても、こういうのことだろうか、とイメージをしてみても、言葉で表現できるかぎり、イメージで表現できる限り、違うと思うんです。

スピーカーさんたちの「言葉は概念」「私はいない」「個人にはわからない」「時間と空間は幻想」「起こっていることがすべて」「でもなにも起こっていない」と言う謎なぞを解いていこうとすると、ああ、きっと概念の外側のことなんだろうなあと思うんです。

でも、そう思うところでそれ以上はわからない。思考停止というより、知らないんだから知りようがないことに気づきます。

なにもないんだから。ないって言ってるのに、探求者は説明が欲しいというわけですからね。お手上げです。

いつか訪れるかどうかわからない、一瞥体験や解放を期待する以外、なすすべなしです。

言葉不可、イメージ不可とわかっていながら、いつものようにイラストを描いてみました。



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こんな感じかしらねえ。

だって「思考」のなかに「私」がいるわけでしょう。

「思考」は「知っていること」で構成されていますし、「思考」のなかに「自分」が登場します。思考のストーリーのなかに入っているのが「自分」であり「私」です。

「空(くう)」は、概念の外側。

どう考えても、そこには「私」は登場しません。そして、身体が今起こっていることを捉えることができるとすれば、見えること、聞こえること、触れること、勝手に感情や思考や反応が起こること、そういうことなんじゃないでしょうか。

現象世界に「身体」はある。でも「私」も思考もストーリーのなか、思考のなか。

んーー。

今はそうとしか思えません。でも、そう「思う」が既にストーリー。

ああ、言葉ってややこしい。思考ってややこしい。自我ってめんどくさい。

ついでに、さっきの「信じる」パラドックスの場合の「あたりまえの中」のイメージイラストも描いてみました。

あたりまえの中にいれば、なんの疑問も湧きません。それを、あえてイラストにしようとしたらこうなりました。

「なんだこりゃ」

後で見返してみたら、より一層よくわからない絵になってます。

なにを伝えたかったんだ、私は?と思いながらしばらく見つめていたら、不意に「あ、いいんだ、これで」と思いました。

なので、そのまんまアップします。

他に描きようがなかったんでしょうねえ。ちょーシンプル。



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なんの疑問も湧かない状況っていうのも、自我(私)には分からないと思います。思考の外のことは思考そのものである「私」には分かりようがないんですねえ。

あたりまえすぎて思考に上ってこないことも、知らないから思考に上ってこないことも、同じように「私」のいないところで起こっている(?起こってないのか?またパラドックス)と思うんです。

この頃、少しこのパラドックスのモヤモヤに慣れてきました。モヤモヤ慣れするとモヤモヤじゃなくなるんですね。

言葉のパラドックスだらけ。

今日もわけのわからない投稿ですみません。



◆今日は不思議なシンクロが何度かおこりました。なんとなく急に世界地図で各国の位置と国旗を照合してみたくなったんです。YouTubeのラジオ動画を聴きながら世界地図のイラストを描いていました。それも陰謀論というか都市伝説というか、そういうジャンルの。

地理に弱いので、この国はこんなところにあるのかあ、こんな国旗は見たことないなあとか、いちいち合わせて確認しながら描いていたんですけど。

カザフスタンの国の形を描いて、国旗を確認していたら突然、ラジオの人がカザフスタンのエピソードを話し始めたんです。なんでまたこのタイミングで急にカザフ!?

おそらく私の生涯の中で、カザフスタンの国の絵を描くことも国旗を調べることもせいぜいがこの一回でしょう。そしてその瞬間にラジオからカザフスタンの話題が聞こえるのもこの一回でしょう。

こんな感じで、些細なシンクロがこの頃ちょいちょい起きます。

現象世界が幻想と言っても、ストーリーだとしても不思議なことは起こる時は起こるんです。

それにしても私、なにに使うつもりなんだろう、世界地図の絵???






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