時代に合わせる親子の読書とは 小学館世界J文学館に寄せて
小学館が創立100周年を記念して素敵な企画を始めた。
どんな時代でも色あせない心を震わす「名作」を今の子どもたちにもっと読んでもらうためということで、リアル本+電子書籍での125冊の全集が出る。それも解説付きで。
いいことだ。装画も鮮やかで目を引くし、時代に合わせつつ名作をご家庭にという視点を出版社が持ってくれているのはすごくありがたい。私はこれが大きな一歩だと感じた。
子どもの生育環境と親の生育環境
私は学生時代に塾講師と家庭教師をやっていた。塾講師は色々あって半年で辞めてしまったのだけれど(これについてはまた今度書きたい)、家庭教師はかなり長いことやった。学費のためにかなりの件数を受け持った。
多くのご家庭で「うちの子は本を読まない」という保護者さんからの不安の声を耳にしたし、事実初回の簡単なテストでも読解力不足による失点が多く見られた。
しかし、その不足をただ「本を読んでいないから」というのは根本的な帰属の誤りのように思えた。なぜなら、そういったご家庭の大半が「買っても無駄だから」とそもそも本を買っていなかったからだ。
それは責められるべきことではない。そういったご家庭は多くの場合、両親が共働きで、そうなると読み聞かせの類は託児所で完結しているという認識がある。託児所に行けば提供されるものを家庭で金銭と時間を捻出してまで再現する必要があると考えるのはそもそも本が好きな方だけだろう。
「自分がそうだったから、子どもも図書室で本を読むと思っていた」という親御さんもいた。そういう場合もなくはない。ただ、子どもが図書室の魅力に気づくきっかけはそれほど多くないのだ。
友達と大声でおしゃべりをすれば怒られる。面白い本を読んで大笑いすれば怒られる。借りた本が読み終わらずに延滞すると怒られる。私の知る限り、図書室は子どもがやりたいことの大半に関して寛容ではない。大人なら当然身につけているであろうマナーではあるし、背伸びが好きな子どもには刺さるが、それを強要されて「楽しい! また行こう!」となる子は少ない。
だから、そもそも学校の図書室は繁盛しないことが多い。それが教育の一環であることは私も承知しているが、その上で図書室と読書の楽しさが両立しているケースはそこまで多くないとも思っている。
もちろん、教育現場も頑張っている。チラシを作ってみたり、スタンプカードをやってみたり、気合の入っている学校だと本屋のようにフェアを開催するところまである。それでも「図書室に行こう」となるのは、そこにあるものの価値をある程度知っている子が大半だ。
また、これは親戚の子どもたち(小学生~高校生)にヒアリングを行った結果だが、今や「学校に携帯を持ってきてはいけません!」などという校則を馬鹿真面目に守っている子どもはほとんどいない。だから、ちょっと暇になったところで「じゃあ本を読もう」とはならない。「じゃあTikTokを見よう」になる。
保護者が子どもだった時代、そういうものはなかっただろう。私に子どもはいないが、同級生から出産の報告が入ってきて冷や汗をかきながらお祝いを送るような歳になった。私の世界にスマホが登場したのは高校生のころだ。
平成初期の生まれだと、一人でやる娯楽というのはそれほど多くない。家庭にゲーム機はあったし、携帯機も人気だったものの、学校に持ってこようなどという不届きな企みをするやつはいなかった。
当時から本を読む子と読まない子の間には大きな違いがあった。そもそも本になっているような物語に興味があるか、そしてそれを「現実ではないとわかっているが、さも現実であるかのように没入して楽しむ」というリテラシーがあるかどうかだ。
その興味、リテラシーは幼少期からの読書体験によって培われるものだと私は考えている。(このあたりしっかりとしたエビデンスを引っ張ってきたいのでいずれこの記事はリライトしよう。私はtwitter以外で無責任な発言をすると背中がゾワゾワする)
実家に本があったからそれを読んで育ったという人もいる。地元の公民館に児童書の貸し出しサービスがあったという人もいる。前者は都会への人口流出と相続放棄によって失われ、後者は地域コミュニティの形骸化と予算の問題で失われつつある。
我々が思っているより今の子どもたちは本に興味を持つきっかけがない。そしてそれはおそらく、我々大人が保全すべきだっただろう何かを保全しそこねたのにも多少は問題がある。
「今の子どもたちは本を読まない」と嘆くのであれば、その責任は子どもたちではなく大人にある。本に興味を持つ環境を整備し、自らが本を楽しむ姿を見せ、ともに本を読んで感想について語らい……まあ、そんな余裕のある家庭がどれだけあるか、という問題にはなってくるのだが。
125冊/家庭
この『小学館世界J文学館』には125冊の作品が収蔵されていて、それらについてかなり視覚的に優れた解説が付属しているようだ。編集委員の金原瑞人が寄せた「君の机の上に、図書館がやってくる!」という一言も間違いではない。
しかも日本初上陸の作品まであるらしい。ルーマニアの『白クマのフラム』、ベルギーの『ずっと いつまでも』、そしてタイトルは挙げられていないがロシアのノーベル文学賞候補作家リュドミラ・ウリツカヤの傑作などなど。私もほしくなってきたな……。
5500円で125冊は本好きからすれば大変に安い。それほど本を読む習慣がなくとも、私が先ほどまで訴えていた「本に興味を持つ環境の整備」には十分な量と質を5500円で買えると思えば悪くないだろう。
もっと安い選択肢もある。青空文庫だ。
著作権切れ、もしくは著作権者が許可している作品のデータベースで、有志の作業によって大量の古典名作が電子化されている。ただし、原本そのままの文章だし、解説がついているわけでもない。そのあたりは自分で情報を集めて頑張らないといけない。
頑張るためにはモチベーションが必要だ。もっと色々な本が読みたいというモチベーションが高まって、古典に興味が出てきたら、ぜひ青空文庫も覗いてみてほしい。
読みやすさ、面白さ、ボリュームを兼ね備えつつ、5500円というかなりの安価で世に送り出すことを決めた小学館には喝采を送りたい。この金額で家庭に図書館が常駐する、これはすごいことだ。私の本棚はたぶん今月だけで20000円ほど食っている。
親類に子どもが生まれたという家庭向けに贈り物として選ぶのもいいと思う。私はそうするつもりだ。一般的なソシャゲのガチャ20連分にも満たない出費をちびっこへの投資にするのは悪くない選択肢だろう。もちろん、ダブりの可能性があるのでご家庭と要相談。
時代に合った訳という難題
時代に合った新訳。私がかぐや姫にもってこいと言われたら早々に求婚を諦めるもの1位だ。
名作の多くは古典と呼んでいいほど昔の作品になりつつあり、当然その訳は現代人の目になじまない。小説というのは口語が幅を取る分、どれほど当時の訳が優れていても日常言語が変化すればするほどピンとこなくなる。
問題は「作品が書かれた時代が変化したわけではない」ということだ。
さあ、どっちが好きだ?
前者は確かに今の時代にそのまま出して喜ばれるテイストではない。読点の多さという視覚的な部分もあるし、漢字の閉じ開きも今と異なる。それ以上に「自分たちの父親について姉妹と話している」というシチュエーションに噛み合っている言葉選びだと現代の子どもたちが感じるかは怪しい。
では新訳は素晴らしいのか? 私の答えはNoだ。
ルイーザ・メイ・オルコットの『若草物語』が1869年のアメリカ合衆国で発行された、彼女の自伝にも近い小説だ。原題の "Little Women" は文字通り「小さな御婦人」、つまり幼い少女ではなく一人の立派なレディであること、またそのように教育を受けていることを示している。
南北戦争時代に北軍の従軍牧師として出征した父が無事で帰還することを祈りつつ、慎ましやかに暮らす女性だけの一家の物語。お金がなく、クリスマスに満足なお祝いもできない一家は時に衝突し、時に苦しみながらも支えあっていく……。
ただし、元々一家は貧しかったわけではない。その生活ぶりはむしろ裕福だ。家は大きく2階建てで、かなり忠実なお手伝いさんを雇う余裕がある。出稼ぎに出ているわけでもない。「ちょっと最近節制しないといけない、生活水準が下がって貧乏に感じる」くらいの話だ。
そもそも彼女たちマーチ家は上流階級の部類である。娘が優れた教育を受け、労働の必要もない。唯一の働き手であるメグは上流階級の子弟を相手に家庭教師をしているが、そういう仕事はそれなりに出自がしっかりしていないと採用されない。
先ほど引用した部分はやんちゃでおてんばな次女のジョーのセリフだ。旧訳が高く評価されている一端はむしろジョーを丁寧な口調で訳しているところにあると私は考えている。
私が最初に読んだ『若草物語』はたぶんこの新潮文庫版で、訳者は松本恵子。丁寧な訳だったと記憶している。アガサ・クリスティの翻訳をよくやられているから、もしかすると知っている人もいるかもしれない。
言葉遣いには受けてきた教育が如実に現れる。どれだけやんちゃに振る舞っても、ジョーのそれはせいぜいがおてんばなお嬢さんのわがままでしかないのだ。時代や環境が彼女をそうしている。
内容を拾うだけであれば、もちろん読みやすい新訳はとてもいい。ただ、あまりにも安っぽい口調はジョーが、もしくはマーチ家が何者であるのかを示すことに失敗している。
お嬢様言葉のような役割語を使うのは安っぽいという意見もあるし、今使われている言葉で訳すべきだという主張も理解できる。だから、これは本当に難しい問題だ。
さらに問題なのが、「保護者がその部分を補完できるか? すべきときを見定められるか?」ということだ。子どもたちに向けられたものである以上、子どもたちが読むことを前提に考える必要がある。
保護者に知識があれば、もしくは調べる余裕があればちょっと口を挟むことができるだろう。「マーチ家の人々はもっと上品な言葉を使っていたんだけど、それだとわかりづらいかもしれないって思って、この本をまとめた人たちがわかりやすくしてくれたんだよ。今度、少し古いのも読んでみる?」という対話のきっかけになるかもしれない。
ただ、「知りたくもない蘊蓄を押し付けられて意欲が失せる現象」を回避できる自信が私にはない。迷惑なくらい喋りたがりなのだ、我々読書家気取りというやつは。
電子書籍で読める、とは言えども
今、電子書籍市場を席巻しているのはKindleだ。いくつか個人的な恨みを抱えているので認めるのは本当に癪だが、兎にも角にもKindleが強い。
それを追うようにして楽天や紀伊国屋の独自アプリが伸びつつあるが、電子書籍市場はレッドオーシャン。なぜならそれぞれがファイル形式を占有しており、著作権保護の観点からそれを共有することはありえないからだ。
KindleのファイルはKindleのアプリでしか読めない。Kindle本を買う時、我々は本を買っているのではなく、Amazonがサービスを継続する限りにおいての閲覧権を買っている。
その意味では今回の小学館はいいことをした。1冊の図鑑を買うことで125冊の電子書籍へのアクセス権を付属させるという形を取っている。各ページのQRコードを読み込んで作品にアクセスするというのはちょっと面倒くさい気がするが、現状使える技術を考えると妥当だろう。
漫画と違い、小説は読み放題のサブスクが皆無だ。Kindle Unlimitedのラインナップはかなり限定的だし、KADOKAWAのBOOK WALKERも知名度があるとは言い難い。というか、そもそも宣伝をあまり見かけない。KADOKAWAさん案件お待ちしてます。
今回の企画が話題になれば、業界内で児童向け電子サービスの動きがあるかもしれない。福音館書店の定期配送サービスを電子化したような感じで……。
本を読むということについて家族で学ぼう
あれこれケチを付けはしたが、素晴らしい企画だと思う。
子どもは本を読むことについてきっかけができる。もちろんその後「別に本はいいかな」となってもいい、それは自由だ。興味を持つことができる環境があるだけでも話は大きく変わってくる。
世界には無数の作品がある。それぞれが異なる面白さを持っている。『三銃士』を読んで刺激される脳と『赤毛のアン』を読んで刺激される脳はもしかして別なんじゃないかと錯覚するくらいに色々な面白さがある。
もしかすると自分が面白くないと感じる作品を絶賛する人がいるかもしれないし、自分が大好きな作品が世界では酷評されているかもしれない。苦しいかもしれないが、そういう多様さは、まず触れてみないことには見えてこない。
保護者は子どもとの接し方を見直す機会を得るかもしれない。知識の与え方、口を出すべきでない瞬間、そういったものを理解できるかもしれない。断定できないのは私に子どもがいないし、その予定もないからだ。
文学とは「読まねば」と思って読むものではない。何かを得るために読むものでもない。大体の場合、それをやると肩透かしを食う。ビジネスマン向けの自己啓発書という特化されたはずの存在ですらほとんどは得るものがないのに、文学にそれを求めるべきではない。
ただ、長い文章というのはステップアップしていかないと読む能力が身につかない。これは間違いない。『ピーター・ラビットのおはなし』を読めないまま『海底2万マイル』を読んでもきっと読めないし、たぶん契約書も読めないんじゃないか。
色々と難しい時代だ。誰も彼も余裕がない。私も余裕がない。ただ、少し本を読む時間があって、6000円ばかしお金を出すことができて、本を読んでほしい子どもが身近にいるのなら、これはおすすめの1冊/125冊だ。
※上はAmazonの予約ページで、私はAmazonアソシエイト・プログラムに参加しているから、ここから買ってくれると私に利益が発生する。ただ、きれいな状態で本を買いたいならhontoのような専門通販か、実店舗での予約をおすすめする。
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