見出し画像

「何の役に立つのか」はどこからやってきた呪いなのか、科学史を遡ってみる話

西洋科学が日本にやってきたとき、それは黒船の姿を取っていた。黒煙を吐き、大砲を備えたそれが打ち破ったのは鎖国だけではなかった。

マシュー・ペリー第二次日本訪問の艦隊を描いた絵
マシュー・ペリー第二次日本訪問の艦隊

「何の役に立つの?」という厳しい視線

私は大学で哲学を専攻した。実を言うと入学前は歴史学か文化人類学で迷っていたし、その前は漠然と考古学への憧れも抱いていた。ところが、まあ言われること、言われること。

「何の役に立つの?」

身分を問われて大学生であると応じ、所属大学を名乗ると、必ずと言っていいほど「大学で何をやっているのか」が次の質問として選択される。たぶんその選択肢しか画面に表示されていないのだろう。

哲学を専攻している私は哲学としか言えない。少なくとも医学部でも工学部でもないのは確かだ。そして哲学は人々にとって身近ではない。たまに自己啓発本を読むタイプのビジネスマンが肩を組んでくるが、経営者の個人的な理念を指すタイプの哲学にはあまり興味がないので反応に困る。

親戚にも言われた。近所の奥様にも言われた。かかりつけ医にも言われた。整体師にも言われた。一度かかったきりの歯医者にも言われた。さすがに許可した手前保護者は言いづらそうにしていたが、言いたそうだった。

直接なにかの利益を生むわけではない、それはそうだ。私は大まかな言い方をすれば死について考えていた。この研究で市民のQOLが上がったり、電力供給不足が解決したり、新しい半導体が発明されるわけではない。

当時の私は自分の中にある「なぜ?」を追いかけるだけのために大学にいたし、そのために頑張ってバイトをし、奨学金を借りて学費を払っていた。とんでもない道楽だ。たぶん当時私大経済学部の合格を蹴らなければもう少し楽な生活を送っていたのだろう。生きるのがへたくそだ。

しかし、「何の役に立つの?」と問われ、言外に「何の役にも立たないことをわざわざ大学でやるべきではない」と諭されるたびに、私は言い知れない怒りを抱えていた。

そもそも哲学は役に立っている、という反論をすることもできる。哲学とはあらゆる根本の「なぜ?」を方法的に探究することであると私は考えている。だから、どんな学問も哲学抜きでは成立しない。

ただ、それを聞いて納得する人はそもそも聞いてこない。大体の場合は「じゃあニーチェって何の役に立ったの? フロイトは?」と意地悪につつきまわしてくるのだ。あとフロイトは哲学者じゃない、医者だ。

口喧嘩は好きではない。しかし、言い返さないまでも自分なりに筋の通った反論を持っていないと私の気が滅入ってしまう。そういうわけで私は「なんで役に立つことをしなくちゃいかんのだ?」という疑問を解消するべく重い腰を上げた。

そういうわけだから、この記事はあくまで「私の反論」であって、世間に訴えかけて何かを変えようというほど強く期待しているわけではないし、査読もついていない。情報リテラシーのある読者ならおわかりとは思うが、アカデミックな話題でまともな査読のついていない記事は信用すべきではない。

以上お含みおきの上、楽しむつもりで読んでいただければありがたい。

すゝめられた学問は何だったのか

近代日本の教育史においてこの人の話を避けては通れない。誰もが知っている、そしてできればいつも財布に入っていてほしい人。福沢諭吉である。

福沢諭吉の肖像画
福沢諭吉 1835 - 1901

福沢諭吉は幕末には蘭学塾の塾長であり、明治維新後は自らの蘭学塾を慶應義塾と改めた。後の慶應義塾大学だ。その後に日本初の官立大学である東京大学が創立するが、国民のためにより多くの私立大学が必要だと考え、各地で設立支援を行った。

その思想を代表するものとして知られているのが『学問のすゝめ』だ。

彼は『学問のすゝめ』で「実にならない学問」についていきなりぶった切っている。

 学問とは、ただむずかしき字を知り、解げし難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世上に実のなき文学を言うにあらず。これらの文学もおのずから人の心を悦よろこばしめずいぶん調法なるものなれども、古来、世間の儒者・和学者などの申すよう、さまであがめ貴むべきものにあらず。古来、漢学者に世帯持ちの上手なる者も少なく、和歌をよくして商売に巧者なる町人もまれなり。これがため心ある町人・百姓は、その子の学問に出精するを見て、やがて身代を持ち崩すならんとて親心に心配する者あり。無理ならぬことなり。畢竟その学問の実に遠くして日用の間に合わぬ証拠なり。
 されば今、かかる実なき学問はまず次にし、もっぱら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり。譬えば、いろは四十七文字を習い、手紙の文言、帳合いの仕方、算盤の稽古、天秤の取扱い等を心得、なおまた進んで学ぶべき箇条ははなはだ多し。地理学とは日本国中はもちろん世界万国の風土道案内なり。究理学とは天地万物の性質を見て、その働きを知る学問なり。歴史とは年代記のくわしきものにて万国古今の有様を詮索する書物なり。経済学とは一身一家の世帯より天下の世帯を説きたるものなり。修身学とは身の行ないを修め、人に交わり、この世を渡るべき天然の道理を述べたるものなり。

『日本の名著 33 福沢諭吉』(中公バックス、中央公論社、
1984(昭和59)年7月20日初版発行)
青空文庫より

要は「儒学者や和学者が言うような学問、古典や和歌は学んだところで金にならないから、学者が言うほど尊重すべきものでもない。それよりは日常生活で使う実学を優先しなさい」と言うのだ。

もっともな話ではある。ここで真っ先に挙げられているのは、
・いろは四十七文字
・手紙の文言
・帳合の仕方
・算盤の稽古
・天秤の取り扱い
つまり、当時の商売人としてやっていくための最低限だ。さらにそこから地理学、究理学、歴史、経済学、修身学と続くが、いずれも「何の役に立つのか」を併記している。

つまり、福沢諭吉は『実学のすゝめ』を書いたのだ。彼が「実にならない学問」を不要としたわけではないのは上記の引用文を読めばわかると思う。それでも「実学を優先しろ」と説いた。

それにはもちろん理由がある。冒頭に戻ろう。黒船がやってきた。

マシュー・ペリーが日本に抱いた優越感

日本に捕鯨拠点を得るためやってきたアメリカ海軍東インド艦隊。その司令長官としてマシュー・ペリーは大統領からの親書を携えていた。1853年のことである。

ペリーの肖像画
マシュー・ペリー 1794 - 1858

ペリーは根っからの軍人だ。軍人の父、スコットランド独立戦争の英雄の末裔という過去を持った母の間に生まれ、14歳のうちに士官候補生として入隊している。その後はブルックリン海軍工廠の造船所長としてアメリカ海軍への蒸気船導入とそれに伴う士官教育に尽力した。蒸気船海軍の父と称される偉大な人物だ。

当然のことながら、蒸気軍艦には自信があった。強力であり、それ以上に最先端であることへの自信が。

それゆえにペリーは当時の海軍長官であるウィリアム・アレクサンダー・グラハムに私信として以下のような手紙を送っている。

 一般人には「今回の主目的は新たな捕鯨船の停泊拠点を得ることだ」という広報によって隠蔽されているはずですが、遠征の真の目的は新たな補給港を得ることです。
 他国籍船に解放されている唯一の港は "Nagisaki" ですが、そこはオランダ人の縄張りであり、彼らが世情の関心をすっかり惹きつけており、その影響力は他国と日本政府との交渉を妨害するのに十分でしょう。
(中略)
 "Yedo" の周辺には互いにそれほど離れていない港がいくつかあるため、戦隊(訳注:squadron, 艦隊を分けたもの)をそれぞれに突然出現させ、そしてあくまで公共の利益と合衆国の権利の範囲で要求を行います。合衆国の船舶が修理と補給を行うために自由に入出港を行うことを許可せよ、と。予期せぬ強力な海軍の出現は、間違いなく大きな驚きと混乱を引き起こすでしょう。
 同時に、日本人は抜け目なく、狡猾な民族であるため、侵入者を排除するためにあらゆる手段を講じるでしょう。おだて、裏切り、策略、物資の差し控え、武力行使……しかし、我慢と忍耐、そして我々アメリカ人の側の統制によって、常に防御的に、侮辱には素早く対応することによって、この事業には好ましい結果が出ることが期待されます。
 

"The Papers of William Alexander Graham. Volume IV, 1851-1856." p16より、
ペリーからウィリアム・アレクサンダー・グラハムへの手紙
なお、日本語訳は睡沢夏生による私家訳である

細部の翻訳にあまり自信がないが、どこでも翻訳されていないようだから自分でやるしかなかった。もし違和感があれば指摘してほしい。

ともかくペリーは日本を開国させて海軍の補給港を得るためにこのような作戦を取っている。日本人の目に馴染まないであろう蒸気船を編成し、近海に出没した上で要求をし、決して攻撃はしない。実に手際のいい砲艦外交だ。

予期せぬ強力な海軍の出現は確かに日本を驚かせ、混乱させた。「泰平の眠りをさます上喜撰たった四盃で夜も寝られず」という狂歌が読まれたのは、まさにこの作戦でペリーが浦賀に来航したときのものだ。

ペリーは蒸気船という技術で日本の横っ面を引っ叩いた。後の『日本遠征記』でもペリーは勝者として、上位者として快感の余韻を漂わせている。

それ(電信機と鉄道)は日本役人側の厭うべき見世物(力士の相撲)と、より高度な文明が提示するものとの、絶妙な対比をなしていた。粗暴な獣のような力を誇示する代わりに、それは啓蒙の不十分な国民に対して、科学と進取の精神の成果を意気揚々と示すものだった。

『ペリー提督日本遠征記 下』(M・C・ペリー、角川ソフィア文庫、2018年)p204

ペリーの名誉のために補足しておくと、彼は決して日本人を野蛮で低俗な民族と見下していたわけではない。もし見下していたなら先述のような迂遠な策を取ってまで平和的に港を利用しようとは思わなかっただろう。

それでも彼は優越感を抱きつつ、電信機や小型の鉄道を日本への贈り物とした。彼はこれを "science" であると語った。

「科学」という翻訳語が生まれた時代

科学は元々日本語にあった言葉ではない。1829年生まれの哲学者、西周が "science" にあてて作った訳語だ。

西周の肖像画
西周 1829 - 1897

西周は先ほど登場した福沢諭吉を含む仲間とともに明六社という学術啓蒙団体を結成し、西洋哲学の翻訳や紹介をした人物だ。福沢諭吉が言うところの「実にならない学問」のうち最も西洋的で近代的なものを国内で流行らせた……という言い方は流石に悪意があるだろうか。

西周が生み出した和製漢語はかなり多い。技術、芸術、理性、意識、知識、概念、帰納、演繹、定義、命題……現在も科学全般、哲学分野で使われている言葉たちだし、日常でも頻繁に登場するだろう。そもそも哲学だって "philosophy" を翻訳した和製漢語だ。

中でも今回注目したい翻訳語は「科学」だ。そう、当時まだ "science" に対応する言葉は日本になかった。科学が定着する以前、そのポジションに収まっていたのは「理学」だ。今の理学部は自然科学の理論を探究する場だが、当時の理学はもっと幅広く、自然科学全般と工学、さらに実学的な技術の多くを内包していた。

ところが西洋の体系化された近代科学が流れ込んでくると、それらをすべて理学で受け止めるわけにもいかない。各分野ごとに翻訳語を創り、いくつもの科に分かれた学問ということで「科学」とした。それぞれの科が大学内で学部として分けられた。

問題は流れ込んできたのが近代科学そのものではなく、その成果物だったということだ。すでに組織的な研究と教育が当たり前になり、その成果物が利益を出すことを先に理解させられてしまった日本にとって、「科学」というのは間違いなく実学だった。

列強に食らいつく実力を手にするため、実学を優先する必要があった。戦争をするためではない。対等な立場に立たねばあっさりと食い物にされるという実感があったのだ。1840年には隣国である中国がアヘン戦争に敗れてイギリスに侵略され、それ以来ヨーロッパ勢力は以前よりも大胆にアジアを植民地化していた。

※植民地主義への批判については今回は避けることにする。すでにいくらでも議論が展開されているから、専門家に頼りたい。

"science" は実学だったのか

ペリーが日本にもたらしたのは確かに科学の成果物だった。しかし、その科学を実際に探究していた人々が「実学としての科学」を意識していたかといえば、Noだ。

少し話が複雑になってしまうのでこのテーマで取り上げるか悩んだが、彼らの話を避けては通れないだろうと観念して名前を出す。15世紀のコペルニクス、そして16世紀のガリレオ。地動説の支持者だ。

ニコラウス・コペルニクス 1473 - 1543
ガリレオ・ガリレイ 1564 - 1642

彼らに関する宗教裁判は「理性と宗教の対立」とされ、宗教側の頑迷さが揶揄される傾向にある。しかし、最新の研究によれば実際は「個人間の対立と政治的対立が入り混じった結果の事件」であったとされている。

というのも、コペルニクスはカトリックの聖職者であり、ガリレオもまた敬虔な信徒だったことがはっきりしているのだ。彼らはあくまで宗教者として天文学を学び、「いや、完璧な創造主が作ったにしては今の説で説明されている天体の軌道は美しくないな……本当はもっと美しいんじゃないのか?」という信仰に基づく個人的疑問から研究をしていた。

ケプラーも、ニュートンも、デカルトもそうだ。「神は偉大な数学者のはずだから、この現象はもっと洗練された法則で説明できるようにできているんじゃないのか?」という信仰に基づく疑問のもとに研究をしていた。

デカルトが人体という聖域に合理主義を持ち込んだことによって、「心臓がポンプになって血流が生じているんだ」という具体的な説明が成立した。このときですら「体内に血を流しているのは神ではなく心臓だ」と主張したわけではなく、「神が造り給うたのだから人体の構造はもっと合理的に説明できるはずだ」という信仰があった。

そもそも、当時はまだ "science" という言葉はない。自然について「なぜだろう?」と理論的な考察を行うことを「自然哲学(羅:philosophia naturalis)」と呼び、彼らは自分たちを哲学者だと認識していた。

言ってみれば近代科学は「完璧で合理的な数学者である創造主による世界にはもっと洗練された説明をつけられるのでは?」という信仰に基づく個人的な疑問からスタートしているわけだ。それを後世の人間が学び、発展させていった先に現在の科学がある。

※近代科学の「スタート」という曖昧な言葉を選んだのは、起源をいつに定めるかで様々な議論がかわされているからだ。古代ギリシアの科学は一度失われ、アラビアで復興し、再びヨーロッパに伝来した。この間に1000年の時が過ぎ去っている。私は近代科学の起源についての自説を持つほど専門的に歴史を学んでいない。だからこうして濁す形にした。

つまり、自然哲学はそもそもアマチュアの趣味人がやっていたことだった。当時は生まれつき領地や労働者を抱えている人間がそれなりにいた。貴族、大商人、そして聖職者だ。彼らの趣味のひとつが自然哲学だったとも言えるだろう。

当時プロの学者というのは神学者、つまり聖書の研究者を指す言葉だったと私は考えている。人々の倫理、道徳、治安、そういったものを一手に担う聖書をより深く理解し、批判者からキリスト教を守り、伝道に役立てる人々は間違いなく当時の実学者だった。

なんなら自然哲学に明け暮れる人々は世間には冷遇されていたし、「なぜ疑問を持つのか」と教会からは睨まれ、時には迫害を受けた。裕福な生まれではなかったがパトロンがいたおかげで生き延びた幸運な自然哲学者もいたが、福沢諭吉が言うような「その子の学問に出精するを見て、やがて身代を持ち崩すならんとて親心に心配する者」もいたわけだ。

ところが、発展していくにつれてその中から実益が生じた。そうなってくると話は別だ。国が学問を奨励し、そこから発生する利益で国家と国民が豊かになっていった。そこからは各国の競争だった。利益になるとわかれば最初から利益目的で学問をする者も一気に増えた。

"science" が生まれたのは19世紀、人々が自然哲学から生じる利益に熱狂していたころのことだ。生み出される利益自体を指してラテン語で知識を意味する "scientia" が用いられ、それを生み出す者 "scientist" を名乗る人物が現れたのだ。

※余談。 "scientist" を名乗りだした最初の人物はウィリアム・フューウェル。科学哲学黎明期に影響を与えた哲学者だったが、そもそも当時の自然哲学者は大学で哲学者として地位と学位を得ていたため、ほとんどの同僚は「即物的利益を生み出す者」という印象になる "scientist" を名乗りたがらなかったため、定着まではかなりの年月がかかった。

ペリーがやってきたのは1853年。産業革命で世界に旋風を巻き起こしたイギリスの覇権が陰りはじめ、アメリカ合衆国内部では領土拡大主義によって現在も続く精神性「フロンティア・スピリッツ」が生じはじめたころだ。

日本に流れ込んできた近代科学はそういった過去を背負っていた。しかし、日本はその過去を経由しようがない。そして科学の成果物を先に見せられてしまったことで、「どうやら西洋科学は実学らしいぞ? これは追いつかねば!」と受け止めてしまったのだ。

それは間違いではないと私は思う。少なくとも「目の前に蒸気機関と電信機があるが、一旦デカルトから読もうか」などとのんびりしていられる余裕は当時の日本に存在しなかった。

そして西洋科学から生じた多くの利益が国家と国民を支え続け、時には科学の産物が傷を残したり、それを癒そうとしたりしつつも現在に至る。我々は科学の恩恵に骨の髄まで漬かっていて、それを忘れることはもうできない。

実利的向上心という道徳観

話は私の個人的な歴史へと戻る。

私は保育所育ちで、それほど予算がなかったのか、置いてある絵本はかなり限られていた。年長さんとしておちびたち相手に読み聞かせをする趣味に目覚めた私は早々に残弾不足に悩まされ、それでも読み聞かせをねだられ、最終的に「自分でお話を作る」という暴挙に出た。

これが大いに好評だった。卒園(保育所だったので卒園というのかはわからない)まで続けたが、一度としてクレームの類はなかった。そのせいで今でも小説家なんてものを目指しているのかもしれない。そんな人格形成の一端を担うくらいに印象深い出来事だった。

当然、小学校に進む。未知の社会だ。何をやればいいかもわからず、なんとなく周りの子と仲良くなろうと頑張りながら生活していくにつれ、ひとつの奇妙な事実に気がついた。

作り話が好まれないのだ。嘘つき、ホラ吹きと揶揄され、友達を失い、教師に強烈なビンタをもらい、保護者を呼び出された。

担任の教師は私に熱く語った。それだけ作り話ができるのだから頭の回転は速いはずだ、もっと熱心に勉強を頑張ればきっと世間の役に立てる、今からでも遅くない……。

今思い返すと私は改心を迫られる囚人だったのかもしれない。それはともかく、私はお話づくりの好きな本心を上手く隠して、世渡りのために勉強を頑張ることにした。幸いにして大学で真面目に哲学をやれるくらいの学力は手に入れた。先生、あのときはありがとうございました。でも不意打ちビンタはどうかと思います、舌を噛みました。

私が育った環境において、実益を生み出さない努力というのは怠惰と同じだった。もしくは、何かしら実益に繋がる言い訳を用意しておく必要があった。ただ竹とんぼを作って遊ぶのは怠惰だが、「手先が不器用だから練習がしたい」と言い訳をすれば褒められる。

ちょうど世間が就職氷河期まっただなかだったから、「何か手に職のある状態で子どもたちを送り出さねば」と焦っていたのもあるかもしれない。とはいえ、実益につながらない努力を褒めてくれる教師と出会うことはなかった。「小説家は金にならない、人のためにもならない、ヤクザな商売だ」と鼻で笑われすらした。

この「実利実益のための向上心こそを美徳とする道徳観」こそが「何の役に立つの?」の正体だと私は考えている。つまり、「何の役に立つの?」と問う人から見て私のような人間は「実利実益を何ら生じさせないことにエネルギーを浪費している」と見えるのではないか。

この「実利的向上心」を大切にする道徳観がどこから来たかについては憶測の域を出ないが、福沢諭吉以来の実学主義や列強への競争意欲、世界大戦を経てのあれこれが合体した結果なのではないかと思う。

今すぐに利益を生みそうに見えない努力とその成果物に人々は関心を示さない。日本人科学者がノーベル賞を取ると記者会見では「何の役に立つのか」ばかりが問われているし、UNESCO協賛の国際科学オリンピックに至っては
市民の大半が知らないか、興味を持っていない。

「役に立つ」という流行りの尺度

役に立たないアマチュアの道楽と見なされていた "philosophia naturalis" から役に立つ "scientia" が見つかりはじめ、それを分野ごとに専門的に扱う "science" が日本にやってきて「科学」となった。どの分野、どの学部が役に立つかなどという視点は歴史の中で見ればごく最近生まれたのだ。

ましてや、今役に立っている成果物を生み出した研究のすべてがまさに「何の役に立つの?」と問われた研究を土台にしているわけで、今役に立つかどうかを気にするのは本当に今この瞬間しか見ていない考え方だと言わざるをえない。

そもそも「役に立つかどうか」は尺度のひとつでしかない。なぜなら「何が役に立つのか」がいつまでも移り変わるからだ。明日には新たな発見があるかもしれない。数十年前の見向きもされなかった研究と新しい何かが結びついて利益が生じるかもしれない。そんな世界で「いつどこであっても絶対に役に立つ」なんてものは存在しないのだ。

この記事で私は利益を得ない。日曜の午後を丸々潰したが財布は軽いままだ。投げ銭してくれる人がいたらとても嬉しいし、この記事がきっかけでお仕事をもらえれば泣いて喜ぶが、今のところはない。

でも、楽しかった。もっと利益性を強調するなら「精神的な苦痛が緩和された」という言い方をしてもいい。つまり、私はこの記事を書くことで得るものがあったのだ。だから私にとって今のところ微塵も役に立っていない、しかしとても価値のある記事だった。

流行りの尺度で測ったときに小さく見えるものでも、それが無価値であるとは限らない。こと学問においては「自分が何を考え、何を得たか」が一番重要だと私は考えている。

つまり、哲学に触れて私が考え、私が得た「何か」の価値判断ができるのは私であって、「私が大学で哲学を学ぶことによって私が世間にどんな利益を与えるのか」は哲学という学問の価値とは何も関係がないのだ。

加えて言えば、世間の役に立っていないのは哲学ではなく私である。役に立たなさは哲学ではなく私に帰属するわけだ。「役に立たない」という尺度で人を測ること自体あまり好ましくないが、それでも測ったとして、私と同じくらいの評価が下される人物が全員哲学専攻卒というわけでもないだろう。

※ちょっと書いていてしんどくなってきてしまった。知的探究心というやつは最終的に自分や自説を傷つける形で終わることもある。

偉いことは義務ではない

いつからだろうか、ネットでよく「〇〇してえらい」という言い回しを見かけるようになったのは。

最近は配信者のコメント欄に多いが、かなり初期のtwitterで「手洗いうがいしてえらい」というリプを飛ばしている人を見て感心したような記憶があるので、ある意味ネットの古典的な文化なのかもしれない。

もちろん、偉いのはいいことだと思う。ただ、偉くなければならないわけではない。どれだけ偉くなくても日本国憲法は人権を保障している。「疲れてなくてもASMRは聞いていい」、いい言葉だ。

役に立たないことをするのは偉くないのかもしれない。どうしても実学が偉くて、それ以外が偉くないとする人がいるのであれば、それはそれでいい。その人の尺度、その人の価値観だ。

しかし、偉くなくても責められるいわれはないということを主張しておきたい。偉いことは義務ではない。私は役に立たないかもしれないし、偉くないかもしれないが、それは罪ではないのだ。

ほどよく無関心、でも無思慮ではない応援を

ここまで10,000字も自分の思想を書いたのだから、少なくとも10,000字分の責任くらいは背負うことを示さなくてはならないだろう。こうしてネットに発表した以上、もはやただの自己弁護では済まなくなってきた。

哲学専攻出身という明らかに「就職で不利な専門の人」である私に進学の相談をしてくる若者がたまに、ごくたまにいる。多くは塾講師や家庭教師をやっていたころの縁か、もしくは親戚、場合によってはネットの知り合いだ。

歴史を学んでみたい、哲学に興味がある、親には日大に行くといったが受けるのは演劇だ……相談してくる若者は誰しも将来への漠然とした不安を抱えている。

私はいつも軽率に背中を押す。「いいんじゃない? 行ってみれば」と。もちろん若者たちの不安は解消されない。私を含め学問を好む人間は「大学は職業訓練校じゃないから、就活と専攻は別だよ」と言いたがるが、就活市場の実態はそうではないからだ。

一生を棒に振るかもしれない。家庭の事情もある。だから夢を諦めるか悩んでいる。そんな若者に私が「その夢は諦めなさい、実学をしなさい」と言うだろうか? 絶対に言わない。

できることは、せいぜい「どんな学びを得てみたいか、どんな疑問を抱えているか」をヒヤリングすること、その上で、おおむね興味と一致しそうな分野の入門書を貸すくらいのことだけだ。

一冊読んで関心が満たされるなら考え直したほうがいいかもしれない。大学に入ってからまた新たな関心の対象を見つけることだってある。しかし、読んでますます興味が深まるなら、挑戦してみる価値はある。

「役に立たないと言われることを頑張ってもいいのか」と悩む人に対して、それが役に立つかどうか口出しをするのではなく、考えるところに寄り添う。そういう応援の仕方があってもいいはずだ。

私は「今役に立つことだけが偉い未来」よりも「いつ役に立つかわからないことをやっていても怒られない未来」のほうがずっと優しいと思うし、ずっと可能性に満ちているとは思わないだろうか。

だからこの記事は、小さな小さな爆弾なのだ。ささやかな、本当にささやかな、理想の未来のための。

出典、参考:
『科学の社会史 ルネサンスから20世紀まで』(古川安、ちくま学芸文庫、2021年)
『日本の名著 33 福沢諭吉』(中公バックス、中央公論社、1984(昭和59)年7月20日初版発行)ただし、青空文庫より
『ペリー提督日本遠征記 上・下』(M・C・ペリー、角川ソフィア文庫、2018年)
『イングランド社会史』(エイザ・ブリッグズ、筑摩書房、2004年)
『科学史年表 増補版』(小山慶太、中公新書、2011年)
『帝国の手先 ヨーロッパ膨張と技術』(D・R・ヘッドリク、日本経済評論社、1999年)
"The Papers of William Alexander Graham. Volume IV, 1851-1856."  (William Alexander Graham, Raleigh : State Department of Archives and History, 1961)

また、見出し画像としてオルセー美術館「地獄の門」の写真をクリエイティブ・コモンズのライセンスに従い使用した。

睡沢夏生 (Natsuki Nemusawa)
ライター・小説家。歴史、文学、宗教、哲学、教育などの「ごちゃっと包括した人類の文化的営み」が専門。
ライターとしてのお仕事募集中です。
mail: sleepysummer.n2@gmail.com

いただいたサポートは主に記事のための調査費用として使わせていただきます。これからも充実したコンテンツを提供していくため、あなたのサポートをお待ちしております。