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#37 退行と解離

今回は、「何か判明した」とかではなくて、今私のなかで考えていることを書いていこうと思います。

先日わかった置いてけぼりの子どもの自分。カウンセラーさんから出た「子ども返り」という言葉が引っかかっていて、いろいろ調べています。素人のグーグル先生頼りですが、精神医学的には「幼児退行」が近そうな感じ。

幼児退行とは文字通り、子どもに戻ったようなふるまいをする現象を指すようです。過度なストレスから心を守ろうとする一種の防衛反応だとか…。また、ストレスがかかったときだけに限るわけではなく、健全な人であっても「友人とテーマパークではしゃいでいる」ような状態は幼児退行と呼ぶことができるそうです。


調べているうちに私は、退行と解離を同時に起こしているのではないかと思い始めました。

以前話した、会いに行った親しい友人といる間に感じていたことは、とにかく友人に触れたい。自分がどう動いたらいいかわからない。何を見ても感想が浮かばない。そして、自分自身をうまく操作できない。


触れたいのは、子どもの頃に満たされなかった欲求が出てきているのでしょう。どう動いたらいいかわからないのは、親の正解を探して動いていた子どもの私が、今目の前にいる相手の正解を探ろうとしているから。もしくは、自由に動くことが許されなかなかったため、動き方を知らないから。

これらは退行と言えるような気がします。退行の症例として出てくる「甘えた口調」や「癇癪を起こす」「はしゃぐ」というものとは違う。おそらく私は退行、子ども返りを起こしたところで、返る先がないんです。あったとしてもずっとずっと幼く、何も知らず、何も許されなかった私。

親の正解を探していた私は、おそらくずっと緊張状態だったんだと思います。緊張しているからこそ、何を見ても感想がない。感じる余裕がない。なんなら見る余裕すらもない。となると、これも退行と考えてよさそうです。


問題は、自分自身をうまく操作できない感覚。いろんな欲求や不安、緊張と子どもの私に戻っていながらも、完全にそれに染まっているわけではないんです。

そうなっている自分が心底気持ち悪くて、固まってしまう体をどうにか動かそうとする自分がいる。いつもの自分に戻りたいと葛藤している自分がいる。

前回話した小児性愛障害から、依存症や人格について考えています。依存症には、自分の意志だけではどうにもならない衝動がある。それって自分の複数あるうちの「一面」というより、「別人格」に近いんじゃないかと思うんです。

ただ、人格を複数持つ解離性同一性障害を含めた「解離」について調べると、意識がないことが前提であることが多いようで、そうなるとそれは当てはまらないわけで。

私の子ども返りも、自分の意志だけではどうにもできない感覚があります。そしてその「面」が私は本当に嫌い。この嫌いがさらに悪化して、受け入れられなくなったとき、それは別人格へと確立していくんじゃないか。そんな考えに行き着いているんです。

カウンセラーさん曰く、私は感情と思考が真逆の状態で生きてきて、解離しかけのギリギリを保っている。ひょっとしたら退行している自分、その感情をもろに感じようとしたら、その均衡が崩れてしまうのではなかろうか…。

そう考えると、鳥肌が立ちます。自分がバラバラに分裂してしまう日がくるんじゃないかって。


知り合いに解離性同一性障害の方がいます。身体的には女性、主人格は女性。それに加えておしゃれが好きなめちゃくちゃ女の子っぽい女の子と、しっかり者の男性が入っているとのこと。

「それぞれに頑張れる部分と受け入れられない部分があって、一人で受け止めきることができないから、別人格に分けている」

その方のそれぞれの人格の話し方や入れ替わりを見ていて、私はそう感じました。その方しか見ていないし、その方のすべてを見ているわけでもありません。だからこれが解離のすべてだとは到底思っていません。

でも、何かつながるような気がするんです。依存症というストレスからの逃げ道と、退行と、私と。


答えは何も見つかっていませんが、こんなことをいつもぐるぐると考えていて、どこかに自分を知るヒントはないかと探っています。


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