『9割が女性患者の難病』にかかった『ボク』の話⑩
※この記事は少し長くなります。気長に読み進めて頂けますと幸いです。
こちらの記事の続きになります。
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28歳の秋頃。
この年の10月は曇りや雨の日が続き、すっきりしない天気が多かったように思う。
僕の場合、天気が悪くなり気圧が下がると、手術した右股関節に少し違和感を感じるが、痛みがあるわけではない。
この時は特に左の股関節の壊死が進み、寝ても立っても歩いても痛みが生じる為、右股関節の違和感よりもそっちの方に気が回っていた。
左足を引きずりながら病院へ向かう。
整形外科の担当医は変わっていない為、前回と同様「人工股関節置換術」で話はすんなりまとまった。
ただ、大学病院である為手術室に空きが無く、これまた前回みたいに一ヶ月ほど待たされることになる。
気持ちとしては早く手術をして痛みを取りたかったが、前もそうだったし仕方がないと割り切るしかなかった。
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手術日が決まり、まずは職場に連絡した。
営業の仕事の方は休職扱いにしてもらえることになった。
さすがに足を引きずりながら外回りの営業は続けられなかったので、ありがたかった。
これで仕事ができない間の資金は「傷病手当金」でしのげることになる。
実はこの時になってようやく自分の体の事を会社の人に説明した。
この少し前に痛みが出始めた段階で直接の上司には、足が良くないとだけ説明したが、今回手術するにあたって、難病のことやどんな手術をするか等を説明することにした。
さらに総務の人には「傷病手当金」を申請するにあたり、社労士さんとの間を取り持ってもらうことになるので同じく説明をした。
やはりあまり聞き慣れない病名だからだろうか。
聞き手の戸惑いは感じられたが、幸いにもその会社はいい人ばかりだったので、気兼ねなく休職させてもらえた。
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続いてワインバーのオーナーに説明をした。
そのオーナーも同様に戸惑いを感じたが、少し違ったのが「人工股関節置換術」に関してどのような手術なのか既に知っていたことだ。
この時になって初めて知ったのだが、いつも来ている常連さんで同じ手術を予定している人がいるのだ。
その方が足を悪くされているのは前々から知っていたが、まさか同じ手術をする予定の人だとは考えもしなかった。
年齢的には自分の父と同じくらいの年代の人で、むしろこれくらいの歳の人のほうがこの手術をするのは珍しくない。
勝手に不思議な縁を感じた。
たまたま働き始めたお店の常連さんで、同じような時期に同じ手術をする男性と巡り合うなんて、すごい確率だなと。
その後、その常連さんにも説明をしたことで少し打ち解けたような気がした。
その方は初めての「人工股関節置換術」になるので、色々と話を聞かれることになったが、それが嬉しく感じた。
自分の話が誰かの役に立てている。
それがなんだか嬉しかった。
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それから手術日まで自宅療養で過ごすことになる。
前回の手術前みたいに一人旅に出て山に登ったりすることはしなかった。
その代わりにジムに行ってエアロバイクを漕ぎ、足の筋肉を鍛えることにした。
ジムといっても都が運営しているトレーニングルームで、障害者手帳を提示すると無料で使える施設のことである。
家の近所にあるのでよく利用させてもらっていた。
寝ても立っても歩いても痛みを感じる足だが、自転車やエアロバイクを漕いだりするような動きのときは痛みを忘れて動かすことが出来ていた。
普段は痛みで体を動かすことも億劫に感じるが、やはり運動するのは気持ちがいい。
ある程度体を動かさないとメンタルがやられてくるのはSLEが発症した時に実感しているので、無理しない程度に。
負荷をかけすぎるとCK(クレアチンキナーゼ)の数値が上がるし、それでステロイドの量が増えることになったりしたら手術が延期になる可能性もあるので、筋力が衰えないようなイメージで鍛えた。
他にはチェストプレスのような胸筋を鍛える器具、ケーブルラットプルダウンのような背筋を鍛える器具などは比較的痛みは少なかった…というよりほぼ無かった。
ただ腹筋を鍛える動作は股関節に響く感じがあり、痛みがあったのでそういうのは控えた。
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そんなこんなで、手術が始まる。
前回の手術では不安な気持ちも大きかったが今回は無い。
むしろ期待している自分がいる。
だからだろうか、手術後切り取った大腿骨頭を見せて欲しいと先生に頼めるくらいに気持ちの余裕はあった。
ちなみに尿管に関しては、挿れる際に麻酔が完全に効いてから挿れて欲しいと頼んだ。
前回もそのようにしてもらい、特に痛みを感じることが無かったが、今回は違った。
麻酔は「脊椎麻酔」で行うのだが、脊椎に麻酔薬を入れ、下半身に麻酔が回ってきているか確認のために、何か硬いものでトントンとされる。
そのトントンの感覚がなくなった段階で麻酔が効いていることになるのだが、それがスムーズにいかない。
ようやく感覚がなくなり尿管を挿入することになるのだが、まだ完全には効いていなかったみたいで、痛みで「…うっ」となったが、そのまま挿れることになった。
……この痛みは本当に慣れない。
そして眠るための麻酔をして、目が覚めたころには無事に終わっていた。
執刀医の先生が手術が滞りなく終わったことを教えてくれる。
そして満面の笑みで切り取った大腿骨頭を見せてくれた。
嬉しそうに壊死がどういう状態だったのか説明してくれる。
確かに見せて欲しいと頼んだのは自分だが、さすがに術後すぐ目が覚めた段階でそのテンションにはついていけなかった。
記憶が曖昧だが、覚えているのは思ってたよりも素人目では綺麗な状態の骨だったように思う。
自分の中では壊死というと骨が黒ずんでいたりしてるのかなという想像をしていたのだが、そんなことは無く白い骨であった。
先生曰く、骨がスカスカになってスポンジみたいになっているから痛みが発生してるらしい(うろ覚え)
とにかくこれで両股関節が人工股関節になった。
自分の人生の中で体の中に金属を挿れることになるなんて、子供の頃は想像もしていなかった。
いや…子供の頃どころかSLEが発症してステロイドを服用するようになり、副作用で骨壊死のリスクがあると聞いても、どこか他人事のように感じていた。
それが発症して5年以内で両足ともこんなことになるとは…という想いはあるが、なってしまったことは仕方がないという想いもある。
SLEが発症して何もしない事を選択する人生を選んでいたら、こうなってはなかったかもしれない。
だがそうではない人生を選択したのは自分であり、これはある意味自己責任みたいな部分はあるんだと割り切れていた。
そう思ったほうが自分の精神衛生的にもいいと思った。
2度も手術を成功してくれた先生には感謝したい。
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手術が終わってからは2つの山がある。
1つは麻酔が切れた時。
もう1つは尿管を抜くときだ。
ここを乗り切ればあとは数日リハビリして退院ができる。
1つ目の山。
麻酔が切れた時の痛みはとてつもないものだ。
痛み止めの薬は利用できるが、2度の経験があってもこの痛みは耐え難い。
耐え難いが、耐えるしかないのである…。
これを乗り切り、車椅子に移動できるようになったら、2つ目の山だ。
尿管を抜くことになる。
この痛みも何度経験しても慣れない…。
痛みのせいだろうか、自分の男の部分が数日機能しなくなる。
…おそらくメンタルも関係しているのだろう。
だがこれを乗り切れば、自分を繋ぐ管は無くなり自由になる。
車椅子移動ができるようになり、リハビリが始まる。
実は手術が終わり、その日のうちにこっそり立つ練習をしていた。
本当はまだ固定されきっていない段階で立つのは良くないことだと思うのだが、2度目の手術なので自分の中で試してみたい気持ちがあった。
結果は支え無しで立つことはできた。
…さすがに一歩を踏み出すことは出来なかったが。
そんなこともあり、最初のリハビリでは理学療法士さんも驚くほど動くことが出来ていた。
ちなみにこの理学療法士さんは偶然にも前回と同じ方だった。
だから僕の回復力に理解がある。
すぐに歩行器へ変更となった。
だがそれもそう長くなく、すぐに杖歩行に変更となり、院内を自由に動けるようになった。
そうなると、決められたリハビリの時間以外にも自主的にリハビリをした。
といっても病棟内を歩き回るのと、階段を上り下りするだけだが。
術後すぐは階段を登るのがなかなか大変だった。
まだまだ人工股関節が固く、可動域があまりないため、足を上げるのが難しいからだ。
しかし、動かしていかないと可動域も広がらないので、とにかく痛みに耐えた。
その甲斐あってか、前回と同じように術後1週間で退院することができた。
理学療法士さんにも、看護師さんにも早すぎだと驚かれた…というより笑われた。
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退院したその日のうちに、友人のお店に行った。
快気祝いに1杯のワインを飲みたかった。
…実際に飲み始めたら1杯で済まなかったが。
それでも無理のないように飲んだ。
やはり人と共に飲むお酒は美味しいし、楽しい。
味覚も特に変化はない。
仕事に復帰しても問題なさそうだ。
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そして冬。
退院して少し立った頃。
職場復帰することにした。
退院してから散歩やジムでエアロバイクを漕いだりして、なるべく足を動かした。
日常生活の動作としては退院直後でも1人でほとんどのことはできる程に動けていたが、仕事をやるレベルになるとまだ不安はあったので、リハビリを重ねてから復帰することにした。
手術跡の方も傷口や腫れが残っていたので、少し収まるのを待った。
ズボンを履くとわからないレベルだが、脱ぐとはっきり左右で太ももの太さが違うとわかるくらいに腫れている。
前の手術の時はこの腫れが収まるのか不安に感じたが、元通りに戻ることは知っているので、今回は落ち着いて回復させることができた。
2度目の経験だからだろうか。
手術前も手術後も自分の中ではかなり落ち着いていた。
自分がどうなるのかわかっていたし、実際に思い描いたように事が進んでいったので、自分の思い通りになっているという錯覚に陥る程だ。
この5年で色々な事があって、経験値が上がったと捉えられるだろうか。
もう大概のことは受け入れられるようになっていた。
その分、感情の起伏が無くなったように感じる。
感情に蓋をして、一定に保つことで自分を守っているのかもしれない。
現代医療では治ることのない病気に対して、良いように言えば『悟り』、悪く言えば『諦め』みたいな事を感じている。
もう何かに対して、執着する気力もない。
何かに執着すれば、その何かに対して期待することになってしまう。
そうなったら裏切られることもあるかもしれない。
期待をするから裏切られると感じるのだ。
だから期待することもないし、執着することもない。
この時はっきりと決めた。
今後、30歳になるまでに自分の意志とは関係ない要因で仕事ができなくなったら、今やっていることはきっぱりと諦めよう。
そしてその時はもっと自分の体に合わせた仕事を選択しよう…と。
30歳というのはただ区切りが良いなと感じただけである。
それまでは今やりたいと感じたことに突っ走ってみよう。
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という訳で今やっている仕事を少し整理することにした。
自分が今やりたい仕事は何か。
営業の仕事はそれなりに楽しさを感じていたが、1年近くやってきて、ここで経験をしてもこれ以上の成長は見込めないように感じていた。
会社の人たちは良い方ばかりの職場だったが、復帰して1ヶ月で辞めることにした。
最後の日も心地よく送り出せてもらえたので、本当に申し訳なく思う。
ただ自分が今やりたいと思った仕事は、ワインバーでの仕事や芸能の仕事の方で、そっちにもっと注力してみたいと思ったのだ。
特に芸能の仕事は、今までスタンドインという表に出ることのない仕事が多かったが、これからはオーディションから受けてみてチャレンジしてみたいと考えた。
ワインバーの方は夜営業のみなので、昼にそっちの仕事を入れればなんとかなる。
そんなざっくりとした見積もりだったが、ひとまずワインバーの仕事をメインに据えるので、フルで仕事をすることになり、新しい食事メニュー考案やその他設備面のリニューアルで色々と任せてもらうことができた。
特に食事メニューは全て自分がレシピを作成し、自分以外の人でもできるオペレーションまで考えたものを作らせてもらえた。
しばらくはこっちの仕事をやってみて、仕事のペースができて、落ち着いたら芸能の仕事を再開しようと考えた。
だがまさか、この後世界規模で混乱の渦に巻き込まれる事態になるなんて、この時は想像もしていなかった…。
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そして2020年2月。
お店もリニューアルして、本格的に営業を再開した。
これまでの常連さんもリニューアルを祝してたくさんの方が来てくださっていた。
この月は毎日忙しく感じた。
それと同時にこの月からあることが騒がれ始めた。
「新型コロナウイルス」である。
横浜に入港したクルーズ船の乗客に感染者が出たというニュースが流れたのがちょうどこの時期だ。
まだこの2月は客入りはあった。
だが3月に入り、スーパーからトイレットペーパーが手に入りづらくなると、少しずつ客入りが悪くなっていったように感じた。
それでも変わらず来てくださる常連さんもいるが、出てくる話題はウイルスに関することばかりであった。
免疫抑制剤やステロイドを服用している身としては、市中感染が広まった段階で、不安に感じながら仕事をしていた。
バーという業態である以上、お客様と対面で接客することになるし、飲酒を伴う場で感染が広がっているという話を聞き、オーナーと相談してなるべくキッチンで仕事をして、たまにホールに出るという形にしてもらった。
そして4月になるとついに緊急事態宣言が行われ、お店は休業することになってしまった。
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お店が休業になったことにより、自分も外に出ないようにした。
スーパーに買い出しに行く以外は家から出なかった。
まだまだ未知な部分が多いウイルスであり、どういう後遺症があるかもはっきりしていないものであることから、感染するわけにはいかないと思った。
しかし、この騒ぎがある程度落ち着けばまた仕事が再開できるだろうと、色々とウイルスの事がわかってきたら、実は大したことないだろうという事が判明するかなと、正直この時はまだ甘く考えていた。
そんな自分の考えが変わったのはあるニュースを聞いたときである。
大相撲力士の「勝武士」さんが亡くなったというニュースが流れたときだ。
彼は自分と同い年であり、病気は違えど基礎疾患を患っているという点では同じで、そんな方が新型コロナウイルスによって命を落としたというニュースは自分の中でかなりの衝撃だった。
このウイルスは舐めてはいけない。
そう考えたときに以前決意したことを思い出した。
『今後、30歳になるまでに自分の意志とは関係ない要因で仕事ができなくなったら、今やっていることはきっぱりと諦めよう』
こうなってしまった以上、自分の体の事、命のことを考えれば今の仕事から離れるのが最善だと考えた。
様々な事を任せてやらせてくれたオーナーには本当に申し訳ないが、辞めることを決めた。
幸いにも体の事情に理解をしてくれていたので、それを受け入れてくれた。
病気のことがなければ、この困難な状況に対してお店をどうやって盛り上げていくか一緒に考えることができたかもしれないが、でもそんなタラレバを考えても仕方がないと割り切った。
こういう世の中になってしまった以上、これまでのような飲食を伴う不特定多数の人と接する接客業は自分には難しいかもしれない。
となると可能ならば在宅でも出来る仕事を選択したほうがいいのだろう。
そうするとPCのスキルが必要となってくる。
だがこれまで趣味でPCを扱うにしてもクリエイティブな事をしたことがない。
仕事でもデータ入力や書類作成くらいだ。
どういうスキルを身につければ、自分が望むような仕事に就けるのかわからなかった。
そこで色々と検索して探してみたところ、「就労移行支援事業所」というものを見つけた。
障害者向けの施設であり、就職に役立つ知識や必要なスキルを学ぶこと、就職の準備をすること、就労支援員に就職や体調に関する相談することなど、必要なサポートを受けることができるとある。
障害者手帳は既に取得しているので、利用する条件は揃っている。
世の中が落ち着きを取り戻すまで勉強してみたいと思った。
それが30代、40代の自分の為になるかもしれない。
肉体労働の仕事を続けていた時はそんな先の自分のことなんて考えることもなく、今やりたいことをやる、今を乗り切ることしか考えていなかったが、このような状況になって、ようやく自分の将来に対して真剣に考えようと思ったのだ。
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役所で施設の利用申請をしてから認定が下りるまで少し時間がかかったが、夏から通えることになった。
支給されるPCを使って、IllustratorやPhotoshopのようなソフトウェアの使い方やデザインについて学んでいる。
事業所も程よく密にならないように工夫されており、静かな環境で、ここでなら感染リスクをさほど感じることもなく続けられそうだと思った。
新しいことを学ぶのは楽しい。
どんどんとカリキュラムを進めていった。
少し前の自分なら、ずっと座りっぱなしで作業することに退屈を感じていたかもしれないが、この方向性で仕事をしたいと決めたことで退屈に感じることなく、吸収が早かったと思う。
あの時ああいう選択をしてよかったなと思えるようにしたいという気持ちがあったからかもしれない。
そんな感じでやっていたからだろうか。
職員の方からNHKの取材が入ることになり、インタビューを受けてみないかという誘いがあった。
選んでもらえた事は嬉しく感じたが、「ニュース7」のコーナーの中で放送されると聞き、全国ネットで自分の体のことが話されるというのには少し抵抗感があった。
しかし、この放送によってこういう施設がある事を知ってもらうことで、それが誰かの救いになるかもしれないという意義があると考えれば、僕がそこに力添えできるのは幸運なことなのかもしれない。
実際自分も今こういう学べる環境があることに、すごく有り難みを感じている身だ。
そう考えたときにはもう決まっていた。
この仕事を引き受けよう。
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放送は取材を受けたその日のうちにされた。
今までドラマやCMの撮影では放送されるまでに時間差があるのが当たり前だったので、あまりの早さに驚いた。
周りの人達にこのことは伝えていなかったので、実感できる反響としては無かったのだが、引き受けてよかったと思う。
こういう機会をいただけて、職員の皆様には感謝したい。
実際に慣れないことをやってみることで自分の経験値になるように感じたし、なによりこのときの経験が、今こうやってnoteに自分の経験談を書くことに繋がっている。
僕のこの「SLE」「皮膚筋炎」「シェーグレン症候群」「特発性大腿骨頭壊死症」という病気に対する対応は、うまくいかなかったり、失敗してきたことが多いように感じる。
悔しい想いもたくさんあった。
それは病気に構わず好き勝手にやってきたからだという自覚はある。
だからこそ、病気が発症して不安になっている人達に対して自分の経験談が何か役に立てばという想いでこの備忘録を残すことにした。
人によって体の許容量は違うと思うが、僕のように自分の限界を超える無理をして、悲しい思いをする人が減ってくれれば嬉しい。
そしてこれからは病気とうまく付き合えるようにしたい。
僕なりの方法でこの病気を寛解する様子を綴っていきたいと思う。
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少し話が脱線したが、29歳の冬。
ここのところちょっとずつCK(クレアチンキナーゼ)の数値が上がってきている。
ステロイドの増量も検討された。
ステロイドの量が10mgにまで減った段階でいつもこうだ。
何か別のアプローチが必要なのかもしれない。
入院することで使える点滴の薬があり、それを使えば状況が変わるかもしれないと先生に言われた。
以前も同じようになった時、その時は仕事の関係もあり入院することは避け、ステロイドの量を増やした。
だが今回はそんな事も気にかけることがなく、治療に専念できる。
もしかしたらチャンスなのかもしれない。
今後のことを考えれば、この段階で薬を使って一気に抑え込んでみて、それを維持していくように病気と向き合うことができればいいのかもしれないと考えた。
入院期間も2週間程でいいとのことだ。
内科の入院だから、もしかしたら伸びることはあるかもしれないと考えたが、今の自分の状況なら伸びたとしてもなんとかなる。
入院することに決めた。
が…。
……この入院によってまさか難病属性が増えるなんて、このときの僕は想像もしていなかった。
そんな29歳の2月頃。
==入院生活1日目に続く==
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こんにちは。
改めましてKOH@メタメタ系男子です。(sle_koh)
前回からかなり時間が経ってしまいましたが、10話目になります!
ようやく、この「『9割が女性患者の難病』にかかった『ボク』の話」に一区切りつけることができました。
そもそもこの話を書こうと思った経緯は↑の本文にも綴りましたが、自分のような失敗をする人が減って欲しい、悲しい想いをする人が減って欲しい、誰かの役に立てればという想いから、入院中に書き始めたものです。
ですが、自分で想像していた以上の人が見てくださり、しかもTwitterなどで「続きを楽しみにしています」や「応援しています」というコメントをいただくことが出来、自分の方がたくさんの勇気をいただいたように感じます。
退院後、自分の体や生活のリズムを整える方を優先していたため、この話を書くのが遅くなりましたが、自分の話が誰かの心に残ってくれたら幸いです。
就労移行支援事業所の方にも通所を再開していますが、リモートで作業することができているので、このような状況でも学びが出来ています。
自分の体としてはこの後、手術が控えているので、それが落ち着けば転職活動に本腰を入れたいと思います。
そして、僕の人生が続くようにこの話の方も続きを書く機会があればと思います。
ひとまず考えているのが、調理師やソムリエという経験から自分ができることとして、料理等の『食』の面からアプローチしたいなぁと考えてます。
「医食同源」という言葉があるように、食べることで病気を治したり、寛解できればなぁと。
僕の場合「皮膚筋炎」によるCK(クレアチンキナーゼ)の値によってステロイドの量が変動するので、それが安定するような食生活を取り入れたいと入院中から考え、退院後実践してみました。
まだ1ヶ月ほどのデータですが、数値は今までで1番と言ってもいいくらいに下がり、安定しています。
入院中に使用した「リツキサン」という点滴の薬のおかげかもしれませんが、それでもこの状態を維持して、ステロイドの量を減らしていきたいと思うので、続けていって上手くいけばその様子を綴っていきたいと思います。
「リツキサン」の効果は半年ほどらしいので、そこからが勝負ですね!
長くなってしまいましたが、ここまでご覧いただきありがとうございました!
これを読んでくださった人の一日が良いものでありますように。