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桜花2ラバウル編9

「殺す!」
 ガラス戸が震えるほどの物騒な怒鳴り声が、朝早くから兵舎内に響いた。それぞれの部屋で、早朝の一服を味わっていた総司と山崎が、下士官室に駆け込むと、純矢が刀を抜き放ち、丁度杉本に突きつけたところであった。杉本の後ろには、バナナを抱えたこの島の女の子が震え、涙で頬を濡らしている。
 彼女は近くにある村の娘だ。先日、被弾した橋本が川に不時着した際、救助してくれた村の人々の中にいた少女である。助けてくれたお礼にと、橋本は食べずにいた弁当と煙草を彼らに差し出したのだが、これが村人達に気に入られるところとなり、時折村から随分と離れているというのに、この基地まで顔を出しては、村で育てている果物や野菜、酒をくれ、その代わり、煙草や被服などを受け取って帰っていく習慣ができた。
 もちろん基地の中や兵舎の中に、彼らを入れることは許されていない。指揮所の前の広場で、物々交換をしたり、気まぐれに歌ってみたりするのだが、今、女の子は総司と山崎の目の前にいる。
 純矢の吊りあがった目が、彼女を敵と認識し、彼女を引き入れた杉本も共に切り殺そうという勢いである。
「どけ、杉本。地上でなど死にたくなかろう、飛行機乗りが」
「当たり前だ、俺はどこでだって死にたくなんかねぇよ、冗談じゃねぇ! だけど、どいてやらねぇ、こいつは橋本の命の恩人なんだ! 追い出す必要なんかねぇ!」
 部屋に連れてきたのは杉本だと、山崎は総司に目配せした。内地にいる妹を思い出すと言っては、言葉も通じぬ彼女に絵を描いてやったり、手近にあるもので人形を作ってやったりして、世話を焼いていた杉本を、山崎はよく目撃していた。今日も、何かを渡すつもりであったのか、貯め込んだ航空糧食が、彼の寝床の上に転がっている。
 だが残念なことに、杉本は純矢と同じ下士官室で寝起きしていた。部外者を入れ、橋本らは口を閉ざしたとしても、純矢が見逃すということはない。
視線を鋭利な刃物に変容させて、純矢が容赦なく軍刀を振り上げた。
「敵を部隊に入れるなど弛んでいる、殺してやる」
「ふざけんな、俺のどこが弛んでるっていうんだ」
「制空権を保てぬ状況で、輸送船は次々沈められ、陸軍の上陸作戦に支障をきたしている、 それでも食うや食わずで陸軍は戦っている、女だ、食い物だと現を抜かす前に、敵機を落とせ! 敵を殺せ!」
 一呼吸に言い放ち、怒りの感情を露わにする純矢を、総司はどこか嬉しげに、目を細めて見ていた。純矢の言葉の端々に、親友の姿を見る総司には、この光景は懐かしいものであり、純矢の感情を垣間見られる奇跡の一瞬であった。
 ―人間は陸にいるんだ、奴らが出てこなけりゃ、貴様らは失業だな。
よくそう言って神谷は笑い、陸軍輸送を嫌う海軍への嫌味を総司に向けたものだった。しかし、今ここで陸軍と海軍の比較は禁句に近い。制空権を保てぬ苛立ちは、誰もが持っている。
 山崎は、軍刀が振り下ろされようという間際に、素早く体を二人の間に入れた。
「純矢。朝早くから元気がいいなぁ。敵でも来たのかと思って驚いたよ」
「敵がおります」
 刀を振り上げたまま、純矢は女を睨みつける。彼には、相手が女であるとか子供であるとかといった区別はない。敵か否かなのである。
 青白い刃は、娘まで届きそうにはなかったが、両の手が利き手である純矢は、拳銃をいつ手にするか分からない。山崎は少しずつ純矢との距離を詰めていく。
「純矢。この子が何か戦争に負けるようなことをしたのか? していないだろう。反対に食い物を届けてくれているんだ。杉本だって、ちゃんと戦果を上げている。士気は鈍っていないし、作戦に支障は出ていない」
「隊長殿」
「はいはい、その元気を哨戒にまわしてやろう。今日は俺と飛ぼうか」
 純矢の頭を撫でながら、山崎は次に杉本を見た。
「杉本、お前もよくないぞ。今度からは彼女を基地内に入れるな。言ってあるだろう、情報の秘匿だと」
「こんな子供に何ができるっていうんですか! 隊長まで、そんなことを言うとは思わなかったですね」
「そんな風に言われると、好きな子にふられたようで傷つくなぁ」
 山崎は悲しげに笑った。
「まぁ、どちらかというと最近は―」
 山崎の言葉を遮るように、激しく警報が鳴った。基地の中の、ありとあらゆる鳴り物が激しく打ち鳴らされて、緊張が一気に高まり、皆建物から飛び出していく。
「空襲、防空壕へ待避」
 怒鳴り声に、純矢は忌々しそうに舌打ちをし、刀を納めた。
 搭乗員は、本能的に愛機へ行こうとしたのだが、外に飛び出すと、すでに空には敵機影は見えていて、爆撃進路に入っている。
「発見が遅いぞ!」
「逃げろ!」
 総司が、まだ格納庫にいる整備員へと怒鳴った。
「早く逃げろ! 零戦はいい、早くお前たちが森の奥へ行け!」
 ジャングルの中に隠していた零戦を出してきて、整備をしていた整備員たちが、必死の形相で零戦を隠匿しようとする姿が見えるが、そのままでは爆撃までに退避できそうにない。兵舎にいた山崎たちですら、防空壕までは遠かった。足が速く体力が残されている者だけが、間に合うであろうという距離である。
 全員が疲労を抱えており、先日まで、高熱で海軍病院にいた者もいた。足がもつれて倒れ、もう逃げることを諦めた者が、地面に大の字になって寝ている。
「まもなく第一波」
 純矢の報告を聞いた山崎は、咄嗟に声を張り上げた。
「伏せろ! 物陰に隠れろ!」
 彼は怒鳴ると同時に、恐怖に棒立ちになっていた西川を、土嚢で作った簡易な壕へと突き飛ばした。杉本は女の子を抱えて待避壕に走りこみ、彼女に覆い被さる。
 直後、高所から落ちてくる爆弾の独特の高音がし、衝撃が彼らを襲った。耳を切裂く鋭い音に指揮所が無残にも飛び散って、火薬と煙の匂いが辺りに立ちこめる。ばらばらと大小さまざまな木片や金属片が降り注いで、伏せている人間の肉体を抉り取った。
 滑走路に並べていた零戦も、次々と爆弾を浴びて砕けていく。
 随分と長い時間のように思えた。山崎は身を縮めて伏せたまま、目だけは開けていた。舞う土ぼこりと震動の中で、自分の呼吸が嫌に大きく感じられ、胸が破裂するかと思うほど、心臓が波打っているが、この状況はまるで他人事のようであった。毎日毎晩続く襲撃には疲れと眠気が溜まり、疲労が限界に達しようとしている。横を駆け抜けていく機銃の弾丸には、さすがに肝が冷える思いはするが、こうして身を小さくしている時、重い体を無条件に休めさせることができるようで、力が抜けた。そんな風に爆撃を思う自分が腹立たしいが、地を這う戦闘機乗りには何もできない。
 かつては自分が空を舞い、こうして敵を撃っていたことを思い出して、つい笑ってしまう始末であった。
 敵機の反復攻撃も遠ざかり、辺りは静かになった。杉本は土を被った顔を上げる。女の子は恐怖に震えてはいたが、怪我はないようである。
「よかった」
 灰の混じった土を払い、安堵して壕から出ると、そこは血と破壊の海であった。
 呻き声と死臭が立ち込めている。杉本が逃げ込んだ待避壕の手前では、橋本が頭を飛ばされ死んでいた。足が遅かった小沢は逃げ遅れ、爆撃機と共に来た戦闘機の機銃を浴び、腹と胴とを分断され血の海に横たわっているのが見える。黒々と内臓が零れて虫が集り、もう彼は人ではなかった。杉本はその風景に、呆然と立ち尽くす。女の子が慌てて森へと逃げていったのにも気が付かない。
「西川三飛曹、撃たれていないか」
 山崎も、飛び込んだ壕の中に身を横たえたまま、突き倒した西川に間延びした声をかけた。西川は震えながら顔を出し、手を振る。
「は、助けていただき、ありがとうございます」
 無理やり笑ったような声音が震えていたが、山崎は安堵した。体を起こして地上に出ると、やはり西川が引きつったように笑っていた。
だが、西川の笑顔はすぐに消えてなくなり、青ざめて唇を震わす。
 背後で純矢が、よく通る声で怒鳴った。
「全員防空壕へ退避! まもなく第二波! 退避、退避!」
 もはや、警報を叩く人も物も、先ほどの攻撃で消し飛んでいる。純矢はその中で、敵の動静を確認していたのだった。
 山崎は立ち上がろうとして、己の体が血に濡れていることに気がついた。まるで雨に打たれたようにして、血が白いシャツに飛び散っているのだが、自身の体は何の痛みも感じられない。
 その時、山崎の意に反する力が、強く彼を引っ張った。
「自分の前を走ってください、隊長殿。それから上着を。白は目立つであります」
 振り向き、山崎は純矢の無事を確認しようとした言葉を飲んだ。
純矢は、左肩に金属の破片を突き刺しており、すっかり血まみれになっていた。そうであるのに、どこで拾ったのか双眼鏡を首からぶら下げ、山崎を冷静に急き立てるのである。
 動揺し、混乱の中で動きの鈍くなった山崎に、純矢は自分の上着を脱ぎ、山崎に被せた。
 血が冷たく山崎の肌に触れる。
爆音を抱く青空は、地上に倒れている屍を見下ろしていた。山崎の腕をつかみ、走り出した純矢の態度も、まるでその空のようであり、肉体に突き刺さっている金属片も、流れている血も、真っ赤な肌着も純矢のものではないようだった。山崎は、純矢に引っ張られるままに駆け、防空壕へと押し込まれた。

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