精一杯の、生と死と。(3年前の春)
私が体験したネガティヴケイパビリティは、義父の看取りだった。
もう3年前になる。
その頃コロナが蔓延し始めて、
今まで体験したことの無い閉塞感の中、施設でやっと安心して暮らし始めた義父が誤嚥性肺炎になった。
熱は出ているが、元気はある。
元気はあるが肺に水が溜まっている。
入院せねばならない。
義父は入院を嫌がったが、高熱だったため施設に戻るより病院で治療することになった。
どんな経過で治療があったのか、
とにかくコロナ対策でお見舞いに行けないまま(オムツを届けるだけ)1ヶ月が過ぎた。
医者から話があると告げられ、行った時には、義父は痩せ細り、自力で立つことも出来ない状態だった。
点滴だけで命を繋いでいた。
もう治療のしようが無いこと、
胃瘻にするか、点滴を抜いて死を待つか、の2択を迫られた。
答えなど直ぐに出せる筈がない。
以前、ここと違う病院では、鼻から管を通してエンシュアを入れ、直接胃から栄養補給して体力を温存し、嚥下の練習を根気強くして回復したのに、何故この病院は点滴だけだったのだろう。
コロナ禍で無ければお見舞いに行けて様子を見て転院も出来たかもしれない。
しかし、義父はもう体力も無くなり酷い状態でベッドに寝かされていた。
施設に戻って、施設長さんと相談員さんと、夫と4人で話し合った。
施設では点滴は出来ない。
医師は常駐していない。
胃瘻の手術をするには体力が無さすぎる。
施設長さんが語ってくれたこと。
「わたしも自分の親父が亡くなるとき、同じ選択を迫られました。
自分は長い施設勤務の中で、様々な経験、看取りをしてきました。
その中で、胃瘻や点滴を続けて死を迎えることの身体の負担、苦しみも見てきました。水分があると苦しみが増すのです。何も口に入れず水分も減っていくと自然に枯れていくように穏やかに旅立つのを知っていたので、自分の父親には、何もしない、選択をしました。親父はそうして旅立っていきましたが、未だにそれが正しかったのか、答えは見つかっていません。」
と、話してくれた。
まるいちにち、考えに考えて、
私と夫が出した結論は、
「何もしない」だった。
愛する家族の最期に、何も出来ないどころか、何もしない事を選ばねばならない、辛さ。
辛い、という文字では言い表す事が出来ない、苦しさ。
人は産まれ、
生き、
いつかは死んでいく。
自然な流れとはいえ、
そこには様々な思いがある。
とても辛い。
胃瘻をしない選択をしたと医師に告げた。
退院の時、医師は顔すら出さなかった。
義父はしっかり車椅子に座り、入れ歯を要求した。話すエネルギーすらなかったが、体幹は保持していた。
目もしっかりしていた。
その姿を見たら、もしかしたら施設に戻れば元気になるんじゃないか?
と、本気で思える姿勢だった。
帰りの車の中で、眩しそうに外の景色を見ていた。
施設に戻って、職員さんたちに会ってとても嬉しそうに笑っていた。
夕方になって状態が急変し、施設の自分の部屋で息を引き取った。
あの病院のベッドじゃなくてよかった。
皆んなに囲まれて看取られてよかった。
そう思う事で、なんとか「ここで逝けてよかったね、ジッチャン」と思ったが、無理矢理そう思うことにしたのかもしれない。
もっと出来る事は無かったのか。
私たちの選択は正しかったのか。
あのとき、熱を出したとき、もっと違う選択をしていれば、こんな思いをさせる事は無かったのではないか。
全てに答えは無い。
慰めになるのは、施設に入って、ようやく慣れてきた頃の、今まで見たことの無い、義父の子供のような笑顔だった。
義母が亡くなって、ウチから近所とはいえ、一人暮らしでどれほど心細かったのだろう、と、その安心した笑顔で感じていた。
もう時は戻らない。
死に関しては、答えはいつだって見つからないのかもしれない。
生まれること、産み出すこと、生きること、死んでいくこと、に、
私の中には、
答えは無くて、
あるとするならば、
今このとき、
精いっぱい「生」を満たすことだと、それがたったひとつの答えになるだろうか。
それ以外は、答えのない中に留まり、迷い、泣きながら方向を決めていく。
それが、
精一杯の、生きることなのかもしれないと、
3年前の事を思い出していた。
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