
音楽の神、ヨハン・セバスティアン・バッハ 天才が遺した音の宇宙
ヨハン・セバスティアン・バッハ──この名前を聞いて、どんなイメージが浮かぶだろうか?
音楽の父、対位法の魔術師、宗教音楽の巨匠……どれも正しい。
しかし、彼は単なる偉大な作曲家ではない。
彼の音楽は、もはや神が創った数学であり、人間の感情を超越した宇宙そのものだった。
そんなバッハの生涯を、ちょっとユーモアを交えて振り返ってみよう。
音楽史が苦手な人も、少しは楽しめるはずだ!
バッハ家に生まれし音楽の怪物
1685年3月31日、ヨハン・セバスティアン・バッハはドイツ(当時は神聖ローマ帝国)のザクセン=アイゼナハという小さな町で生まれた。
しかし、小さな町と侮るなかれ。
アイゼナハはドイツ文化の中心地の一つであり、あのルターが聖書をドイツ語に翻訳したワルトブルク城のある町だった。
つまり、バッハは宗教改革のスピリットが色濃く残る土地で生まれたのだ。
しかし、そんなことよりも重要なのは、バッハの生まれた家だった。
バッハ家──それはまさに音楽一家の代名詞であり、遺伝レベルで音楽が組み込まれている一族だった。
バッハの父ヨハン・アンブロジウス・バッハも、れっきとした宮廷音楽家。
アイゼナハの町の楽団でヴァイオリンを弾き、作曲もこなしていた。
だが、驚くべきは彼だけではない。
バッハ家の男たちは、代々ほぼ全員が音楽家だったのだ。
祖父も作曲家
叔父もオルガニスト
いとこもヴァイオリニスト
兄も教会オルガニスト
子どもたちも作曲家(バッハ二世たち)
要するに、音楽ができるのが当たり前の家系。
家での会話も、おそらくこんな感じだったに違いない。
家族:「お前もそのうち作曲するんだろう?」
バッハ:「えっ、僕も!?」
父:「当然だ。バッハ家の血を引いているんだからな。」
こんな環境に生まれたバッハが、音楽の怪物にならないはずがなかった。
バッハは幼い頃から父ヨハン・アンブロジウスの指導を受け、ヴァイオリンとチェンバロの手ほどきを受ける。
彼が初めて音楽に触れた瞬間、脳内で何かが「バチン!」と弾けたに違いない。
「これが……音楽か!」
しかし、その幸せな時間は長くは続かなかった。
9歳のときに母が亡くなり、翌年には父も死去。
10歳にしてバッハは孤児となり、兄ヨハン・クリストフ・バッハのもとに引き取られることになった。
兄クリストフもまた音楽家で、教会オルガニストとして活躍していた。
ここでバッハはさらに音楽を学ぶことになるが、実は兄とは微妙な関係だったと言われている。
バッハは兄のもとでチェンバロやオルガンを学びながら、家にある楽譜を貪るように読んでいた。
ところが、兄はどういうわけか特定の楽譜だけはバッハに見せなかった。
理由は諸説あるが、
「まだ子どもには早い」
「自分より才能がありすぎて警戒した」
「ただ意地悪したかった」
など、色々と憶測が飛び交っている。
だが、バッハはそんなことで諦める男ではなかった。
彼は夜中、家族が寝静まったあとにこっそり楽譜を取り出し、窓からの月明かりだけを頼りに写譜したのだ。
今の時代なら、こっそりスマホで撮影すれば済む話だが、当時はそうはいかない。
バッハは6ヶ月かけて、一字一句、音符一つ逃さず楽譜を書き写した。
そして、ついに完成!
「やったぞ!」とばかりに弾こうとしたその瞬間、兄に見つかる。
「お前、何をしている!?」
結果、楽譜は没収。
このエピソードは、まるでRPGの主人公が禁断の魔導書を盗み見て怒られるみたいな話だが、
このときの努力がバッハの音楽に対する執念を形作ったことは間違いない。
兄のもとで学んだバッハは、やがて自立を決意する。
18歳になった彼は、アルンシュタットという小さな町で教会オルガニストの職を得る。
ここから、バッハの音楽家としての本格的な人生が始まるのだが、
もちろん、そんな簡単に安定した人生になるはずがない。
というのも、バッハという男は、根っからの音楽の自由人だったからだ。
教会の上司の指示をガン無視
勝手に数百キロ離れた街に長旅に出る(しかも許可なし)
礼拝用の音楽なのに、オルガンを爆音で弾いて「派手すぎる!」と怒られる
もはや、現代にいたら独断専行すぎる社員として即クビになるレベルである。
しかし、そんな破天荒な彼が持っていたのは、誰もが圧倒されるほどの技術だった。
オルガンを弾けば、その技巧の緻密さに聴衆は言葉を失う。
作曲すれば、対位法(複数の旋律を絡ませる技術)が神業のレベル。
即興演奏をさせれば、周囲が「え、こんなに複雑なのに即興!?」と絶句する。
18世紀の音楽家は数多くいたが、このレベルの職人芸を持つ者はほとんどいなかった。
そして、バッハは知ることになる。
「自分は、音楽そのものなのだ。」
バッハの幼少期は、音楽に溢れた日々であり、孤児としての苦難であり、そして圧倒的な才能が開花する舞台だった。
音楽家の家に生まれただけでは、あそこまでの天才にはならなかっただろう。
彼は
幼い頃からの環境
執念にも似た学習意欲
そして圧倒的な才能
によって、音楽の怪物へと成長していった。
次章では、そんなバッハがどのようにして世界を驚かせる存在になっていくのかを見ていこう。
彼の音楽人生は、まだ始まったばかりだ。
オルガン職人バッハ、放浪の旅へ
バッハは音楽の怪物だった。
だが、彼は決して天才ゆえの孤高の作曲家ではなく、むしろ自由と冒険を愛する音楽の旅人でもあった。
18歳、アルンシュタットの教会でオルガン奏者の職を得た若きバッハは、
その驚異的な演奏技術と生意気な態度で、早くもちょっと扱いづらい天才として有名になりつつあった。
アルンシュタットの教会に就職したバッハは、当然ながら礼拝のための音楽を提供するのが仕事だった。
だが、彼は決められたとおりに演奏するという概念を持ち合わせていなかった。
ある日、礼拝でオルガンを弾いていたバッハは、突如として即興演奏を始める。
壮大なフーガが繰り出され、聴衆は驚愕──そして困惑。
「なんか、すごいけど、礼拝の曲としては派手すぎない?」
「いや、もはや礼拝どころじゃなくて、コンサートになってない?」
──そんな不満の声が、上司の耳にも入る。
そして、教会の偉い人はバッハを呼び出した。
「もっとシンプルに、落ち着いた演奏をしなさい。」
だが、バッハは「え?それじゃつまらないじゃないか」と言わんばかりの態度で、
その後も自分のスタイルを変えなかった。
そして、彼の自由奔放な音楽魂は、ついにある事件を引き起こすことになる。
1705年、バッハは思った。
「ハンブルクのオルガン奏者ブクステフーデがすごいらしい……これは聴きに行かねば!」
この時点で、何の問題もない。
偉大な先人の演奏を学ぶのは、音楽家にとって重要なことだ。
だが、問題はその距離だった。
アルンシュタットからリューベックまで、約400km。
しかも、徒歩。
400kmといえば、東京から青森くらいの距離。
つまり、「ちょっとオルガンを聴きに行くか」という感覚で、
東京から青森まで歩いて行くようなものだった。
しかも、彼は上司に「行っていいですか?」とは一言も言わなかった。
無許可で、いきなり長旅に出発。
現代なら無断欠勤でクビ確定だ。
数週間かけて歩き続け、バッハはついにリューベックへ到着する。
そこには、北ドイツ最大のオルガン奏者にして、当時の音楽界のレジェンド、ディートリヒ・ブクステフーデがいた。
ブクステフーデの演奏を聴いたバッハは、衝撃を受ける。
「なんだこれは……!」
彼のオルガン演奏は、ただの伴奏ではなく、まるでオーケストラのように響き渡る。
即興演奏のダイナミズム、音の構造の美しさ、自由奔放な表現──
バッハの中で、新しい世界が開かれた。
興奮したバッハは、ブクステフーデの演奏を聴くだけでは飽き足らず、「一緒に演奏させてください!」と申し出る。
ブクステフーデは「おお、若いの、やってみるか!」と受け入れ、
バッハはそこで即興演奏のスキルを磨きまくる。
バッハは当初、1ヶ月ほどで帰ると考えていた。
……が、リューベックでの音楽体験が楽しすぎた。
結局、彼は4ヶ月間も滞在してしまったのだ。
アルンシュタットの教会側は、さすがに戻ってくるだろうと思っていたが、
2ヶ月が過ぎても帰らない。
3ヶ月が過ぎても帰らない。
「え、あいつ、まさかこのまま消えるつもりか?」
そして、4ヶ月後。
バッハはようやく戻ってきたが、当然ながら上司に呼び出される。
教会の上司は、バッハを見つけるなり詰め寄った。
「4ヶ月も勝手に消えて、何考えてるんだ!?」
バッハは悪びれることもなく、むしろ満足げな表情で答えた。
「素晴らしい音楽を学んできました!」
「はあ!? いや、そもそもお前、礼拝の仕事はどうするつもりだったんだ!?」
バッハはそこで、あろうことか教会の音楽を「つまらない」と言い放つ。
「もっと自由で表現豊かな音楽をやるべきです!」
結果、当然ながら大目玉をくらう。
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