聖徳太子 死の謎
日本史上最も謎が深いとされる、聖徳太子の生涯。
そもそも聖徳太子は存在したのかどうか、という議論もある。
存在したならば、何故天皇に即位できなかったのか、そして死因は何だったのか。
私はその二点について、母親の影響を強く感じる。
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聖徳太子は、用明天皇と、その異母妹である穴穂部間人皇女との間に嫡男として生まれた。
通名を厩戸皇子という。
幼い頃から利発であったとされ、様々な言い伝えが残っているが、あくまで伝説としてそれは横に置いておく。
厩戸が14歳の時、父の用明天皇が崩じ、両親と縁の深い蘇我氏と、物部氏との争いが始まる。
崇仏戦争と言われる。
仏教派で圧倒的戦力を誇る蘇我軍と、神道派で軍事をもって知られた物部軍。
死闘の末に勝ったのは蘇我氏だった。
これより後、蘇我氏の隆盛と共に、仏教も栄えていくこととなる。
蘇我氏が次期天皇として推した泊瀬部皇子が即位し、崇峻天皇となった。
しかし当時権勢を振るっていた蘇我氏とは反りが合わなかったのか、
本当のところは分からないが、結果的に崇峻天皇は、蘇我氏によって弑された。
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崇峻の死後、天皇として最も有力だったのは、19歳となる厩戸だったはずだ。
しかしここで、意外な人物が痛恨の過ちを犯す。
母の穴穂部間人大后が、人もあろうに義理の息子(用明天皇の皇子)である田目皇子との間に、子(佐富王女)をもうけてしまったのである。
一度皇后になった女性の再婚は、過去に例が無い。
夫となる人物が政治的優位に立つことを懸念したからであろう。
用明天皇の皇子と結ばれたことにより、穴穂部間人大后は皇后であった事実が打ち消され、厩戸も皇子ではなく皇孫に格下げされた可能性がある。
義理とはいえ、母と子という忌まわしい婚姻は、他の皇族や群臣、民衆からも反感をかっただろう。
厩戸の天皇即位は、事実上不可能になったのである。
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こうなると、推古女帝の皇太子兼摂政として政務を執り行った、という史実も怪しくなってくる。
一応皇族ではあるとはいえ、皇子と皇孫では扱いが違う。
政務に多少携わった可能性はあるものの、史料でとり上げられたような華々しい活躍も疑わしい。
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30年後、穴穂部間人皇女が亡くなる。
私の頭に思い浮かんだのは、少し後の時代の、中大兄皇子と同母妹である間人皇女との関係だ。
二人の母であった斉明女帝が崩じた後の6年間、天皇位は空位のままであった。
皇太子だった中大兄と間人が男女の関係だったことは広く知れ渡っており、天皇に相応しくないとして中大兄は即位できない立場にいた。
西暦664年、間人皇女が薨じ、その2年後に中大兄はやっと天皇に即位するのである。
ほとぼりが冷めた、というところであろうか。
ちなみに「間人」という名は、男性関係に問題のあった女性に特有のものだと考えている。
穴穂部間人皇女が亡くなった三か月後、厩戸もこの世を去ることになる。
この三カ月の間に何が起こったのか。
「醜聞の張本人である穴穂部間人皇女が亡くなったことにより、ほとぼりが冷めたと判断した厩戸が、天皇位を狙っている。」
という密告がなされたのではないかと推測する。
無論まだ推古女帝は健在であり、それに対する謀反を企てていると女帝側が警戒し始めたか、実際に詰問を受けたのか。
厩戸にしてみれば事実無根だったのかもしれないが、だからこそ無罪を主張する為に自ら命を絶ったのではないだろうか。
『太子伝歴』には、厩戸の死についてこう書かれている。
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推古二十九年の春、太子は斑鳩宮にいた。膳部妃に命じて沐浴させ、自分も沐浴して身を清めた。新しい清潔な衣服を着て妃に言った。「私は今夜死ぬだろう。おまえも一緒に死のう」と。妃も新しい衣服を着て、太子と同じ床に入った。明朝、二人は死んでいた。
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どう見てもこれは心中である。
おそらく膳部妃は、厩戸の最大の理解者だったのだろう。
あれほど振り回された穴穂部間人皇女と、最愛の膳部妃と同じ墓で、厩戸は今も眠っている。
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