『ぼっち・ざ・ろっく!』細かすぎる全話演出解説を通して学ぶアニメ演出④-1
第5話「飛べない魚」
という訳で、今回は前半のクライマックス、第5話についてのお話です。
タイトルが、第4話「ジャンピング・ガール(ズ)」と微妙に対になっているのが気になりますが、エピソードの内容自体の繋がりはないようです。
今回は、怒涛のライヴ・シーンがありますので、語ることはたくさんありますから、早速おっぱじめましょうか。
【キャラクターの衣装で定義する人物の内面描写】
それでは、この辺りで、キャラクターの「衣装」について話しておこうと思う。
アニメーションでは、作画の手間を少なくする目的で、同じ絵を使い回す(兼用とかバンクとかいろいろ)ことがよくある。そういった都合上でも、キャラクターは、いつも同じ服装をしているのが通例だし、服装もキャラクター・デザインの一部だ。
しかし、衣装によって、キャラクターの印象は大きく変わってくる(例えば学生服ならブレザーなのか学ランなのかセーラー服なのか等)し、衣装一つで、キャラクターの様々な側面をビジュアルで視聴者に具体的に伝えることができるので、映像作品ではかなり重要な要素である。
「成長」を見た目で表現した他メンバーをたしなめる虹夏だけ制服を着させ、他三名と差別化して違いを強調。さらに、前のシークエンスと違う日だということも暗示している。
【会話シーンに意味を持たせるには・・・?】
ライヴに出す出さないを口論する金髪姉妹を肩越しショットの切り返しで。
「肩越しショット(OTS)」や「頭越しショット(OTH)」は、ドラマや映画の、特に二人の人物同士の会話シーンでよく見かけるカメラ・ワークだ。
とはいえ、昨今では、あまりにもマニエリスム(型にはまった、教科書的、マニュアル的)化しすぎたきらいがあって、どんなに演出に凝った監督でも、会話シーンになるととたんにOTSの乱用、という事態に陥ることがよくあり、そうなると、作品全体の印象も陳腐なものとなりかねない。
やはり、会話シーンといえども、何かしらの意味合いを持った「場の演出」の中で、工夫のあるカメラ・ワークによって「画面の演出(ミザンカードル)」をしたいものだ。
アニメは実写とは違い、カメラを動かすのは自由度が高いから、カット数さえ確保できれば、ある程度はマニエリスムから脱することも可能だろう。
上記のシーンでは、これらのOTSを軸に、会話をしている当事者の虹夏だけでなく、周囲の人物のリアクションも適切にリアクション・カットとして織りこんでいる。
しかしOTSは、「会話している」ことを説明する、退屈で陳腐なだけのカメラ・ワークだという訳ではなく、ある程度の意味合いは持っている。
それは、それまでのシーンで確立された内容によって、緊張感・親密さ・共感・憎悪・束縛・欲望など、様々な意味合いがある。どのようなコンテクスト(文脈)の中で使われるかによって、180°意味合いが違ってくる場合があるので、その読み取りはそれなりに難しいが、キャラクター同士の対立構造を仄めかすには最適だと思う。
オーディションをしてくれることに喜ぶ虹夏、そしてひとりを、喜多の頭越しショットOTHで。これは、オーディションの喜びを喜多と共感していることの表現。
また、肩越しショットとは違うが、キャラクターを開いた態勢(カメラ側に身体を向けている)と閉じた態勢(カメラと反対側を向いている)によって上手い人(虹夏・リョウ)/下手な人(ひとり・喜多)をグループ分けし、「見えない境界線」(背景の茶色い鉄柱も)を作って対比構造にしている。
【カメラの動きによる感情表現】
階段を登ろうとるすと、虹夏姉に呼び止められ、恐る恐る振り返るひとりを、キャラクター・ドリー(プッシュ・イン)+エクストリーム・カット・ズームインで。
キャラクター・ドリーは、人物の「感情を表現するためのドリー」だ。「ドリー」は、カメラの前後の動きで、トラック・アップ(T.U.)と同義。「トラッキング」と混同される場合があるが(そのためにドリーという語感が全く違う用語を使っている)、トラッキングは被写体の動きに合わせてカメラを動かすこと(アニメ用語でいえば付けパン、フォロー・パン)だが、ドリーは被写体の動きとは関係ない(だからキャラクターが静止している場合はこっち)。
キャラクターの感情を強調するには、カメラをキャラクターに近づけてクロース・アップにすればよいのだが、キャラクター・ドリーで徐々に近づけていくと、シーンに緊張感が加わる。
このシーンでは、キャラクター・ドリーの最中に、エクストリーム・カット・ズームインでニー・ショット(膝から上)からビッグ・クロースアップへ、急激に寄る(そうでなければジャンプ・カットとなる)ことでショットに動きを与えて、ひとりの感情をさらに強調している。
【回想シーン、フラッシュ・バックの意味論】
言葉が、文法通りに単語を並べただけでは意味が正しく通じなかったり、無意味になることがあるのと同じように、映像作品も映像をただ並べただけでは、複雑なストーリー(物語)を伝えることは出来ない。
この『ぼっち・ざ・ろっく!』第5話のAパートでは、3種の錯時法がある(多いな)。
まずは、ひとりが虹夏姉から虹夏への伝言を頼まれる際のひとりの回想シーン。
回想シーンへ移行する際は何のトランジッションもないストレート・カッティングだが、回想明けは、虹夏姉のカメラのフラッシュを利用した「フラッシュ・カット」となる。
フラッシュ・カットは、上記のツイートにもあるように、カメラのフラッシュ(特に昔のカメラのフラッシュは、燃やすと強烈な閃光を発するマグネシウムが使用されていた)や銃のマズル・フラッシュ、懐中電灯や車のヘッドライトの光のように、瞬間的に光るものの光が画面全体に広がっていって、結果的にグロウ・アウト(ホワイト・アウト)というトランジッションになるという手法だ。
グロウ・アウトあるいはホワイト・アウトは、回想シーンや夢のシーンなど、時間軸をずらしたり非現実的なシーンとなる合図でもある。
「ひとりのギター演奏が下手」だと知らされた喜多が、「前、学校で聴いたときには巧かったのに」と回想するシーンの前後にホワイト・アウトのトランジッションが入る。これは、具体的な光源がないので、グロウ・アウトではない。
一方、ひとりの回想シーンは、ちょっと入り組んでいて複雑だ。「回想シーン」と一括りにして良いものかどうかも迷ってしまう。
第一に、この回想シークエンスは、映像としては二重構造となっている。
まずは、バンドの合わせ練習をシークエンスの両端に置くアーチ構造とし、その間にフラッシュ・バックで個人練習のシーンを細切れに配した、モンタージュ・シークエンスが挿入される。
モンタージュ・シークエンスは、これまでにも何度か出ているが、様々な別々のビジュアル・イメージの群れをつなぎ合わせ、時間の経過やセリフ無しで、物語の進行を語るときに使われるテクニックで、今回は、これこそモンタージュ・シークエンスとでも言える典型的なものになっている。
例えば、映画『ロッキー』では、ロッキーがアポロ戦に際して、ランニングやスパーリングなど、様々なトレーニングをする姿がモンタージュ・シークエンスで描写されているが、この、ひとりの回想シークエンスと同じだ。
そして第二に、それらのシークエンスの背後に、「サウンド・ブリッジ(SEやセリフなど、主に音楽以外の音響)」或いは「オーディオ・ブリッジ(主に音楽)」としてひとりの独白ナレーションが流れ、シークエンス全体の統一感を出し、最初と最後の合わせ練習のシーンの繋がり感や一貫性を確保している。
それでは、今回は短めですが、ここまでといたします。
ライヴ・シーンが、えらく長くなりそうなので・・・。
とはいえ、普通はこのくらいの長さで良いんですよね?
次回は、第5話の続きからお送りいたします。
あと、ご意見、ご感想の他、「SEって何?」とか、この用語わからねーよ!というどんな細かなご質問も構いませんので、ご気軽にどうぞ。というか、お待ちしています。
第1話、第2話の記事はこちら。
第3話の記事はこちらです。
第4話の記事はこちらです。
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