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【心の詩歌】【公開記事】イキ告のすすめ
この文章は「イキ告」をすすめるものです。
イキ告という言葉は、由来が明確ではありませんが、おそらく「いきなりの告白」「イキった告白」というニュアンスで広まっている最近の言葉です。
関係を構築したうえでの、計画的な告白との対比で、かなり否定的なニュアンスで使われます。
この言葉が用いられる時代背景には、恋愛関係を持ちかけるのがハイリスクになっている現状があります。
人を口説くことはそれ自体がリスクを取る行動ですが、それが告白される側にとって嫌な気持ちになる場合、口説くことの多くはある種の加害とみなされるようになっています。
告白の加害性というものは両思いになれた場合誰も害を訴えません。
微妙な話です。
同じ行為が、行為者が好まれたかどうかで、糾弾されるかどうかが変わってしまう。
「イキ告」は、あまり重罪と見なすと「差別」につながってしまいます。
人は自分が取らないリスクを他人が取った場合に、それを「失敗」として嘲笑います。
私が見るところ、「イキ告」の使われ方は、批判的である以上に嘲笑的であるように思います。
「加害性のある行動をするなんて悪いやつだ」という非難以上に、「失敗して恥をかくなんて愚かなやつだ」という嘲りを含んでいます。
しかし、私が考えるに、「イキ告」の対義語を「準備告」とでも呼ぶとして、どこか「準備告」には嘘くささが伴います。
私自身は奥手な方で、過去にお付き合いした女性の半数くらいは「準備告」、つまりしっかり友好関係を深めて、脈があることを確認してアプローチしました。
「準備告」は、トイレの芳香剤の香りがします。
私の若年期は、トイレの芳香剤の香りがします。
思うに、愛というものは多少身勝手なものではないでしょうか。
自分をコントロールできないのが本当ではないでしょうか。
結果的に非難されても、イキ告したほうがいいと思います。
人間関係を構築して印象を高め、確率を高めてから告白するよりマシです。
成功する機会を待つよりも、伝えたい思いがあふれる機会に告白しませんか。
無論、程度問題です。
まるで交流がない場合、告白は成功しにくい。
何の手管もなく好意を持ってもらえることもあまりない。
でも、計画的になりすぎては、愛は偽物に変わります。
黒田三郎という詩人は、戦後の日本で素晴らしい恋愛詩を書きました。
自分のことを「貧乏人」「飲んだくれ」と書く黒田は、ある女性に恋をします。
僕は見たのである
馬鹿さ加減が
ちょうど僕と同じ位で
貧乏でお天気屋で
強情で
胸のボタンにはヤコブセンのバラ
ふたつの眼には不信心な悲しみ
ブドウの種を吐き出すように
毒舌を吐き散らす
唇の両側にふかいえくぼ
僕は見たのである
ひとりの少女を
しかし恋する黒田には差し出すものがありません。
というよりも、恋に差し出すものなど、本来ないのでしょう。
僕は
僕の破滅を賭けた
僕の破滅を
この世がしんとしづまりかえっているなかで
僕は初心な賭博者のように
閉じていた眼をひらいたのである
少女は黒田三郎と結婚し、生まれた娘をめぐる詩集『小さなユリと』もまた素晴らしい一冊となりました。
とはいえ、私は黒田三郎が失恋していたとしても、賭博者の光は失われないと思いたいのです。
告白に破滅を賭ける者だけに輝く光があります。
うまくいかなかった告白の詩歌も見てみましょう。岸上大作という歌人の、「告白以後T・Nに」と注釈のある短歌です。
美しき誤算のひとつわれのみが昂ぶりて逢い重ねしことも 岸上大作
相手との温度差があったということは、その告白は「イキ告」だったのかもしれません。
苦く振り返りつつ、胸が高鳴った日々を「美しき誤算のひとつ」と表現しています。
人に嘲られる光かもしれませんが、詩は確かに恋の光を伝えています。
(この記事は、マガジン「心の詩歌」の月初無料記事です。「心の詩歌」は、詩や短歌の紹介、社会問題、哲学などを題材としています。)
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