Waiting for Godot
みなさんおはこんばんちわ。
さおりさんです。
今回は読書記録です。
タイトルでおや、と思われた方もいるかもしれません。
読んだ本というか戯曲ですね、サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』。
その英語版を今回教授にお借りして読みました。
わたしが『ゴドーを待ちながら』を知ったのは大学の時。
新聞部の部長だった友人が当時バンドをやっていて、そのTwitterでお気に入りの文学紹介なるものをやっていました。
そこでとりあげていたのが『ゴドーを待ちながら』でした。
簡単に「ゴドーは来ません!」とネタバレした彼に抗議した覚えがあります。
でも来ないもんね、ゴドー。
そしてまた先日、三浦基さんの「おもしろければOKか?現代演劇考」を読み、改めて興味が出て来たので、今回手に取ってみることにしました。
三浦さんの本を読んだ記事はこちら↓
読んだ結果ですが・・・
ゴドーは来ません!(笑)
あ、まってまって読むのやめないで、ちゃんと書きますごめんなさい
サミュエル・ベケットは、アイルランド出身の劇作家です。
ノーベル文学賞も受賞しています。
この『ゴドーを待ちながら』は当初フランス語で書かれたそうですが、自身で英語でも出版したそうです。
読んでみた感想は、「なにこれむっず!!!」
戯曲を読むときは、私の場合、最初のト書きを参考に頭の中で舞台や情景を組み立てて、その中で人物が動いてセリフを喋っていくのですが、そのト書きが多い。セリフ中にもト書きがちょこちょこ挿入され、動きにとにかく細かい指定が入ります。その度に頭の中の人物たちはト書き通りに動くため、「動きのアップデート」を繰り返しながら私の中で物語を進んでいきます。
セリフも長台詞から短い掛け合いのセリフが折り混ざり、その言い方にもト書きが入っていたりします。
一通り戯曲を読み、感じたことはまるで指揮者のスコアのような戯曲だな、と言ったところでしょうか。
まるでベケットが書いているときに演出することも考えて、細かく書き込みを入れてそれをそのまま出版したような戯曲です。
そしてその書き込みは、この通りに役者が、また他の演出家が戯曲を遂行させるための強制力を持っている、とも感じる。
また第1幕終盤のラッキーの哲学の演説は、力量がなければできないでしょう。
日本語訳だとどう描かれているかはわかりませんが、英語でも見た感じは早口言葉のようです、韻を踏んでいるような.…でも間合いがないと不自然なような.…綱渡りのようなアンバランスなもはや言語群のようです。
以前ユニットの子たちに練習の戯曲でどれをするか、というので『ゴドーを待ちながら』が挙げられたことがありました。
正直話がつまらない以前の問題になってくると思います。
それぐらい難しい戯曲である、と感じました。
英語版では、副題がついていて、"A Tragicomedy of two acts" とあります。
日本語訳で悲喜劇と言います。
また『ゴドーを待ちながら』は不条理劇、とされています。
私が思うに、不条理劇よりも悲喜劇と捉える方がしっくり来ます。
確かにゴドーは来ません。二人とも人の生や運も恵まれず死ぬこともできません。
しかしこの一連の流れを不条理と捉えるのはいささか解釈としては早計すぎる気がしてならないのです。
というのは、2幕でいうと、ラッキーとポッゾの立場の逆転を喜劇ととらえることもでき、ゴドーを待ち続け、死ぬ選択肢を捨てざるを得なかった点も喜劇の要素だと言える。
読み方によっては両方の要素を持ち合わせているからこそ"Tragicomedy"とベケットはまず表現したのではないか、と私は考えます。
ただ一貫して何も起こらないこと、を戯曲中で徹底することで、ベケットがいままでの小説や戯曲を構成の拒否や新たな戯曲の形を目指したことは確かです。
一貫して何も起こらないことを不条理とし、「悲劇」も「喜劇」もなにもないという風刺かもしれないし。
それとも物事はもっと単純なところにあるのかもしれません。
ただ私の母国語は日本語なので、英語だと意味が取り切れない部分があると思うのでこの解釈は不十分かも.…と思いつつ、私の『ゴドーを待ちながら』感想でした。
おわり。
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