世界初の登山鉄道、ワシントン山コグ・レイルウエイ〜アメリカ・ニューハンプシャー州の美しき山々
アメリカ北東部(ニューイングランド地方)のニューハンプシャー州は、お隣のバーモント州やメイン州と並んで、その豊な森林、澄んだ湖、深い山々の自然が美しい土地だ。特に夏にはキャンプや避暑に多くの観光客が訪れる (1)。広大な花崗岩の台地が大陸氷河と水によって長い年月かけて削られ、台地全体の丘や山のほとんどが丸くなっている。山を歩けば、昔氷河に削られた岩盤、氷河が溶けて残った岩が多数見られる。そんなわけで、ここ一帯は花崗岩の産地として知られ、州のニックネームは「グラナイトステート(Granite State、花崗岩州)」(2)。氷河が届かなかった高地に険しい山々が残り、ホワイトマウンテン森林国立公園はそのうちの1つだ。ここは、ニューイングランド地方最高峰のワシントン山1,917mをはじめとする美しい山々を抱く (4)。
ワシントン山登山鉄道 (The Mount Washington Cog Railway)
登山鉄道というと、スイスを思い浮かべる人が多いかと思うが、アメリカ・ニューハンプシャー州のこのワシントン山に、世界で最初となる登山鉄道「ワシントン山コグレイル」はある。1868年に開業、今日も現役の登山鉄道だ。
ワシントン山麓より山頂まで、3マイル(5キロメートル程度)ほどを平均勾配25%(100横に行って25垂直に上がる程度の坂)、最大37%の勾配を上り、世界で2番目に急な登山鉄道となっている (5)。ちなみに、最も急なのはスイスのピラトゥス山にあるピラトゥス鉄道で、1889年開業の登山鉄道 (6)。最大48%、平均35%の勾配だ。いずれにせよ、こんな坂を登ると、普通の鉄道だと、車輪とレールの摩擦が十分でなくスリップしてしまう。そこで、登山鉄道はラックレール方式と呼ばれるシステムを使っている。簡単に言えば、自転車のギアがチェーンと噛み合って進むような感じである。動力車に取付けられた「歯車」と2本のレールの中央に敷設された「ラックレール(歯軌条)」を噛み合わせるシステムを指す。これも色々な形式があるが、ニューハンプシャーで使われているのは創業者のマーシュ氏が考案したマーシュ式(梯子状)のラックレール。
開業当時より蒸気機関車を使っており、上りに1時間強、下りに40分ほどかかる。2008年よりディーゼル車が導入され、36分ほどで上がるようになった (8)。山頂付近には、1時間ほど停車してくれる。現在、蒸気機関車は1875年製のアモノサック号(Ammonoosuc)と1908年製のウオンベック号(Waumbek)の2台のみ稼働している。年を追うごとにメンテが難しくなってきており、会社側は全力を尽くすとしているが、この2台もいつまで現役でいられるかはわからないそうだ。現在、7台のディーゼル車が活躍している (9)。蒸気機関車は、1910年までは薪を使っていたが、それ以降は石炭となっている。片道で0.9トンの石炭と3,800リットルの水を消費する (38)。なので、途中2回ほど途中にある給水タンクで給水のためストップする(下に写真あり)。
麓の駅まで車で行って、そこから乗ることになるが、駅までの公共交通機関はないので、そこまでは車で行くことになる。マウント・ワシントン・オート・ロード(Mount Washington Auto Road)を通って車でも山頂に行ける舗装道路がある他、登山道もあるため、登山客が歩いているのもよく見る。
「災害ツーリズム」がもたらしたニューハンプシャーの観光
ニューハンプシャー州は、いわゆる「災害ツーリズム(Disaster tourism)、ダークツーリズム(Dark tourism)」 (10)によって旅行者を惹きつけた場所だ。1826年にここで起きた集中豪雨による「地すべり」で9人が死亡した「ウィリー家の悲劇」が全国的に新聞で報道され、多くの野次馬が訪れるようになったのがそれだ (11)。1825年、サミュエル・ウィリー(Samuel Willey Jr.)一家は、ニューハンプシャーのホワイトマウンテン山地を通るクロフォード峡谷(Crawford Notch)に越してきた。彼はそれまでニューハンプシャー州のコンコードに住み、農場を経営していたが、民宿を経営するビジネスに乗り出すためにここに妻、5人の子供とやってきた。到着後、2人の従業員を雇い入れ、1793年建立のオールド・ノッチ・ハウスという立派な家を買い、改修、拡張した上で、ウィリーハウス・イン・アンド・タバーン(Willey House Inn and Tavern)と名付けビジネスを開業した。宿泊客はもっぱら、地元かお隣のバーモント州の農民であった。当時、港町であったメイン州のポートランドに行くためにここを通過してゆくものが多かったからだ。ただ、これは彼らが期待していた客層ではなかった。この家は、楓の森の中にあり、秋の紅葉は素晴らしく、彼らはどちらかというと裕福な観光客や芸術家などをあてにしていたのだ。
ウィリーはニューハンプシャー生まれなので、この急峻な山狭の地に地滑りの危険性があることは重々承知だった。特に、雨が降らず地面が乾燥すると、砂がパウダー状になり地盤が緩くなる。そこに雨が降ると一気に地滑りの危険が高まる。そんな日照りと嵐が1826年6月にあり、家のすぐ近くまで土砂が押し寄せたため、彼は家から離れた場所に石造のシェルターを作ることにした。その恐れていた日照りがまた2ヶ月続き、土壌を緩くしていっていた。1826年8月28日月曜、そして今までなかった激烈な嵐がこの辺り一帯を襲う。このため、大規模な地滑りがまた発生したのだ。翌夕、苦労して峡谷を通過していた商人がウィリー一家の家を目撃する。かなり大規模が地滑りがこの一帯を襲い、方々で被害が出ていたが、奇跡的に、そこだけ地滑りの被害に遭わず、家は無事だったのだ。ところが、訪ねても誰も見当たらない。机の上には聖書が開かれ、服が散らばり、ベッドも整えられていなかったが、生きて見つかったものは、材木の下敷きになった牛2頭と犬1匹だけであった。
暗くなったため、彼はここに一泊した。牛の悲鳴と犬の鳴き声で眠れない夜を過ごした商人は動物を自由にしてあげた後、街に辿り着き、この話をすると、その一帯はこの話で持ちきりになり、心配した友人たちによる捜索隊が結成されることになった。31日木曜以降、周辺の捜索で、ウィリー夫妻、従業員2人、子供1人の遺体が次々に見つかってゆく。全員、地滑りの流木の下敷きになっていた。日曜になり、ベッドのわらでできたマットレスが川に浮かんでいるのが見つかり、子供の1人は近くで溺れていた。この子供は外傷がなく、地滑りには巻き込まれていないようだった。あとの3人の子供は見つかることはなかった。
家族は逃げる途中だったのか、シェルターが壊されてもろとも流されたのか、なぜマットレスだけ持ち出されたのか?詳細は推測するしかないが、1つだけ確かだったことは、もし家に留まっていれば助かっていた、ということだけだった (12)。
このニュースは、アメリカ全国に新聞を通じて大々的に報道された (13)。家が無事なのに一家が全滅というミステリアスな話に、アメリカはこの話題で持ちきりになった。旅行のガイドブックにも記載されたため、その場所を一目見ようと観光客が押し寄せるようになった。こうして、訪れた人々はニューハンプシャーのホワイトマウンテンの美しさにだんだん魅せられていった。この後、当地には1829年にはホテルが立てられ、ウィリー一家の悲劇ツアーなども企画され、一大観光地となっていった。「自己信頼(Self-Reliance)」のラルフ・エマソン(Ralph Waldo Emerson) (14)、「ウォールデン森の生活(Walden)」のヘンリー・デービッド・ソロー (Henry David Thoreau) (15)など当代随一のアメリカの文豪達も訪れている。「緋文字(The Scarlet Letter)」のナサニエル・ホーソン (Nathaniel Hawthorne) (16)もこれをもとに「大望を懐く客人(The Ambitious Guest、1835年)を書いている (17)。そのほかも、詩人、画家などが訪れるようになった。1845年には、ウィリー一家の家はベッド数50のホテルになり、営業を開始した (18)。ウィリー一家が亡くなった後に、彼らが望んでいた客層が来るようになったのはなんとも皮肉なことだ。
産業革命が後押しした旅行ブーム
19世紀に入り、産業革命により工業化が進むと、人々の生活には仕事と娯楽の区別がはっきりし始め、週末、休暇という概念が定着し始める。その一方、休みには都会を離れて自然を鑑賞するため、ビーチで海水浴や山でハイキングを楽しむようになり、この時代に特に多くなったのが「旅行」だ (19)。そんな中、イギリスで蒸気機関が発明されて以降、1827年に最初の鉄道ボルティモア・アンド・オハイオ(the Baltimore & Ohio)が開設、一気に鉄道熱が高まり、1830年にはサウスキャロライナで最初の乗客を乗せた鉄道が走ると (20)、1869年、ついに大陸間横断鉄道が完成する。19世紀初頭は、まだ馬に乗ってニューハンプシャーの険しい道を行くのが標準だったが、道路が整備され馬車に置き換わり、それが19世紀の中頃までには鉄道網が整備されてきた。この頃までにアメリカ東海岸に張り巡らされた鉄道網が、ニューハンプシャーへの観光の後押しとなる(20世紀中頃までには、鉄道は車に置き換わって行く) (21)。また、1944年にはアメリカのサミュエル・モールス(Samuel F. B. Morse)が電報を発明、良好な通信手段は旅行熱をさらに高めた (22)。
1869年末までに、ニューハンプシャーには150の豪華ホテル(グランドリゾートホテル)が建設されており、お湯や水の出る快適な部屋、豪華な食事、生演奏やダンスなどのサービスを提供、鉄道によってニューヨークやボストン裕福層を惹きつけた (23)。時代が変わって、現在も残っているのはマウンテン・ビュー・グランドリゾート(Mountain View Grand Resort and Spa)と (24)オムニ・マウント・ワシントンリゾート(Omni Mount Washington Resort)など数えるほどになってしまっている (25)。オムニ・マウント・ワシントンリゾートは、1944年に金・ドル本位制を決めたいわゆるブレトンウッズ体制が話し合われた場所としても有名だ (26)。このワシントン山コグレイルの近くにある。こんなわけで、ニューハンプシャー州は、1892年には夏季に5万人の観光客を迎える1大観光地に成長していた。これは21世紀の今でも変わらず、観光は今でも同州の第2の産業となっている。
シルベスター・マーシュ氏、登山鉄道を思い立つ
シカゴで精肉や穀物のビジネスで成功したシルベスター・マーシュ(Sylvester Marsh)氏がボストンに越してきたのは1857年のことである。彼は引退するに十分な蓄えがあったが、そんな平凡な人生に退屈し、健康を害していたこともあり、気分転換に牧師と一緒に生まれ故郷のワシントン山に登頂することにした。ウィリー一家の悲劇、鉄道の発達によって、その辺りの観光ブームが起こっていた頃の話だ。
夏のうららかな日に山頂を目指し、心地よい登山となった。山頂では、目前にはニューハンプシャーの絶景が広がっていた。ところが、山頂に着くと天候が急変し、命からがら山頂にあったシェルターに逃れる。このワシントン山の頂上は「世界で一番天気が悪い」場所と言われている。北東、南と西の前線がぶつかる場所で、平均の風速は時速56キロ、冬は1日おきに風速が時速119キロとハリケーンレベルだ。60%は濃霧に覆われ、雪は1年に714センチ積もる (27)。
このシェルターは1853年に作られた石造の建物で、現在も山頂にある。ここで一夜を過ごすことになり、いろいろ考えているうちに列車でここまで楽に来られないかと考えて鉄道を作ることを思いついたという。この彼の思いつきが、今でも延々と続き、観光客を楽しませている登山鉄道を作ることになる。州の当局に許可を求めたところ、みんなに狂気の沙汰と思われたが、1858年に設置の許可を取り付けた (28)。
鉄道建設急ピッチで進む
マーシュ氏は引退を撤回、登山鉄道ビジネスにのめり込む。急峻な坂を登る鉄道を作るには、解決しなければならないのが自重によるスリップだ。そこで、上に説明したラックレールが開発された。このラックレール自体はマーシュ氏の発明ではないものの、それを鉄道に使ったのは彼が最初だ。また彼は、険しい山に鉄道を敷くために、鉄道を地面に直接ではなくて、ヤグラの上に敷くことにした。現在、この鉄道はその全長が地面ではなくヤグラ上にある唯一の鉄道となっている。
南北戦争による遅れを経て、1866年春にはワシントン山鉄道会社を設立する。観光客を呼ぶには、既存の鉄道網まで馬車道を繋げなければならない。現在の山麓駅のあたりは、当時は深い森林であったため、最寄りの駅まで平地化するところから始まった。1866年蒸気機関車ペッパーサス(胡椒瓶、Peppersass)号を仕入れ、その頃完成していた最初の600フィート(200メートル弱)ほどの部分を調子よく走ることがわかり、全ては順調に進んでいった (29)。
鉄道経路は、この辺りを開拓したイーサン・クロフォード(Ethan Allen Crawford)が元々確立していた登山道に沿う形で建設された。この登山道は、現在でも維持されており、登山客の拠り所となっている。この頃、工事には南北戦争の退役軍人を多く含んだ300人ほどが関わり、蒸気機関車も2台に増え、工事のスピードはどんどん増していった。高度4725フィートの地点に、大きなギャップがあり、そこを陸橋で渡しているところが名所で、「ヤコブの梯子(Jacob’s Ladder)」という名前が付いているこのアーチが有名なので、興味のある方は写真を見ていただきたい (39)。
建設作業が終わると、山上で働いた労働者は麓に帰ってゆくが、自然な発想として、レールを使って早めに帰りたくなるのが人情だ。彼らは、悪魔のこけら板(Devil’s Shingles)という中心の軌道に乗せる小さい(90 x 25センチ)スライダーで山から滑り降りるようになった。頂上から山麓までわずか15分、最短記録は2分45秒で、時速60マイル(時速100キロほど)の速度にもなったという。さすがに危険だということで、やがて州に禁止されてしまう。
1868年には、予定の半分ほどの鉄道ができ、1868年8月14日には開業式が行われ、最初の客を乗せている。工事はそのまま進み、1869年7月にはついに頂上に到達する。1869年8月にはユリシーズ・グラント(Ulysses S. Grant)大統領も完成したてのこの登山鉄道に乗っている (37)。
マーシュ氏が1884年に死去した後、経営母体に何回か入れ替わりはあったものの、大戦中を除き現在まで続けて営業し、観光客を楽しませている。 (30)。
観光の留意点
この登山鉄道に何回か乗ってみて気づいた点を記す。
1. 蒸気機関車が人気。2ヶ月ほど前には売り切れてしまうことが多い。しかし、現在は朝夕の2回だけしか走っていない。眺めよりも蒸気機関車を満喫したければ一番機関車に近い席を取ると、上のように操作などもよくわかる。ただし、煙を浴びる。上りに1時間、上に1時間、下に40分とかなり時間はかかる。蒸気機関車の写真が目的であれば、蒸気機関車の発着の時間を見計らって麓か山頂で外から撮影するのが良い。乗るのであれば、時間に余裕を持っていけば、出発前の準備の時と、降りた後車庫に入れるまえに撮影することができる。
2. 早いディーゼル車だと、1時間に1本は通っており、比較的容易にここのサイトからチケットが取れる (31)。蒸気機関車の予約は違うサイト。希望者は間違えず予約したい。機会は朝夕1回ずつと限られている。こちらは、売り切れるのが早い (32)。
3. ネットや電話は山深く入らないところが多いので、QRコードをスクリーンショットしたものでも受け入れられるが、個人的にはチケットは印刷した紙のものを持っていた方がいいと思った。行き帰りに列車の入り口で出さなければならないのと、座席が指定なので番号を確認しなければならずその度に出す必要がある。
4. 山頂は、晴れていれば眺めがいいが、天気が悪いことの方が多い。下が快晴で暖かくても、上はかなりの確率でガスっていることが多く、夏でも寒い。それなりの格好で行かないと外に出られない。暖かい上着は必須の持ち物。行く前に、山頂の天気を確認しよう (33)。
5. 季節ごとに見どころはあるが、なんと言っても紅葉の時期は大変景色が綺麗。ただし、この時期は州全体が非常に混雑する。近くのトレイルやフルーム渓谷(Flume Gorge)など (34)を歩くのであれば夏も良い。フルーム渓谷はトレイルが整備されていて、初心者でも安心して歩ける。ただ、入場料と時間の予約が必要なので、こちらも早めに計画を立てるのが良い。
ニューハンプシャー州観光の今後
ニューハンプシャー州は、ボストンのある隣のマサチューセッツ州とはまた雰囲気が違い、興味深い。政治的な側面に関しては、拙著をご覧いただきたい。
観光が主力産業のこの州は、コロナパンデミックの影響を少なからず受けたが、2023年夏季には史上最高の430万人が訪れたと推測されている (35)。年間40万人の訪れるワシントン山はかなり混雑した観光地と化しており、環境に対する影響なども議論されている (36)。観光客は、環境に留意して過ごし、地元だけでなく、アメリカ全土、世界の人を惹きつける美しい州の伝統をこのまま維持できるようにしていってもらいたいと願う。