#16 「考える」ということにも人それぞれ違う解釈がある
このマガジンでは、哲学者のヴィトゲンシュタインの言葉をお題にして、思いつくままに文章を書いて気づきを得るということをしています。
今回は「考える」ということにも人それぞれ違う解釈がある という言葉をお題にして、思いつくままに文章を書いていきます。
私たちは、日々思考しながら生活しています。その思考のすべてが、その状況においての「最善の選択」なのだと思います。
とはいえ、この「最善の選択」は、ほとんど無意識でしていたりします。たとえば、電車に乗るときには、「空いている席はないか」とか、「空いている席がなければどこに立とうか」といった具合に無意識的に、自分にとっての最善の方法がなんなのかを模索していたりします。
スーパーに買い物に行く時でも、その時々で必要なものを選んでいるし、寝る時間も、普段、見ているテレビの番組も、その時々で自分の最善となるものを選んでいるはずです。
では、ヴィトゲンシュタインの「考える」ということにも人それぞれ違う解釈がある、という言葉はどういった意味が込められているでしょうか。
たとえば、同じ状況でも人がとる行動は異なります。なぜ人それぞれに違った行動を取るかというと、人によってその状況においての最善が異なるからです。
突然、雨が降ってきた場合の人の行動は千差万別です。
ある人は、目的地が近いから走ってそこへ行こうと考えます。ある人は、濡れるのを避けるため傘を買います。ある人は、空を見上げてすぐやみそうだからといって、雨に濡れない場所で待機します。また、ある人はタクシーを捕まえて、目的地に向かう人もいるでしょう。
こういった選択は、その人その人の最善の選択です。
また、突然の雨という状況でも、同じ人であっても、その時々での選択が変わるものであり、走って目的地に向かう場合もあれば、タクシーを使う場合もあるし、雨がやむまで待つといった具合に、その時々での選択が異なるものです。
こういった選択の仕方の違いは、その時々の最善を、その状況に合わせて思考し選択しているといえます。
このように私たちは、生活のすべてをその状況においての最善は何かと考えているといっていいでしょう。
では、「考える」ということにも人それぞれ違う解釈がある、ということをもう少し深く見ていきましょう。
人は、その考え方に「傾向」があるといっていいでしょう。この「傾向」が、人それぞれ違う解釈がある、ということに繋がっていきます。
たとえば、節約することを意識している人と、衝動買いをする人では、考え方の傾向が異なります。節約を意識して生きている人は、スーパーに買い物に行く場合でも、突然の雨の場合でも、その行動がお金を掛けない方法を選ぶことが多くなるはずです、逆に、欲しいと思った物をすぐに買うという人は、スーパーでの買い物も、突然の雨の場合でも、お金を気にせず使うという選択をすることになります。
つまり、その人その人が、普段から何を意識して生きているのかという「傾向」で、考え方や行動が変わってくるといえるのです。
また、こういった「傾向」を作って行くことで、生き方の方向性を作って行くことができるようになります。
たとえば「楽しんで生きたい」というふうに考え方の「傾向」を作ることができれば、その時々で「楽しんで生きる」という最善の選択をするようになっていきます。
あるいは「健康になりたい」という考え方の「傾向」を作ることができると、「健康」を最優先する生き方をすることになるし、何かの大会で「1位を獲る」ということを考え方の最上位に置くならば、その生活は「1位を獲るため」の生活になっていくはずです。
そういった意味でも、人は常に自分の考える「最善」に向かって生きているものだと理解できたなら、生き方の「傾向」を明確にしていくと「最善」に直結した行動がとれるようになることでしょう。
生き方の「傾向」は、「最善」に向かって行くためのルートを作ることになります。なので自分が普段、どういった傾向を持って生きているのか、その傾向のままでいいのか、その傾向を改めた方がいいのかなどを考えることで、自分にとっての「最善」のルート作りが出来るようになるでしょう。
考え方は、人それぞれにおかれた状況が異なるので、違ってくるのは当然のことです。むしろ、その違いを気にせずに、より具体的に明確化していった方が、自分にとっての「最善」に向かって行けるようになるといえるでしょう。
*お題として参考にさせてもらうのは、ディスカヴァー・トゥエンティワンさんの「ヴィトゲンシュタイン 世界が変わる言葉」という本の中で紹介されているものです。
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