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自分を生きること、それが我々のすべきこと
「君たちはどう生きるか」、これは昨年公開された宮崎駿さん監督の映画のタイトルです。
「今日、誰のために生きる?」、これはアフリカのブンジュ村での出来事を本にしたSHOGENさんの本のタイトルです。
このふたつのタイトルに共通するのは、「生きる」を疑問形で問いかけていることです。
「君たちはどう生きるのか」、「今日、誰のために生きる?」、このふたつのタイトルは、映画を観る人や本の読者に問いかけています。
そして、僕個人の思いとして、「どう生きるか」の答えのひとつに「誰のために生きるのか」ということがあると思います。
では、誰のために生きるのか?
それは、自分のためです。
我々は、自分を生きるために、いまここで生活しているといっていいでしょう。
この「自分のために生きる」ということが、とても大事なことなのです。
残念ながら、我々は(少なくとも僕は)「何のために生きるのか」といったことを身近な人から教わることはありません。
残念ながら、我々は(少なくとも僕が受けた教育では)は、自分のために生きなさい、といったことを教わることはありませんでした。
我々は、こういった哲学的なこと、あるいは人生論的なことを教わることがなく育っているといっていいでしょう。
将来、「何になりたいか」は問われるのに、「何のために生きるのか」、「どう生きるのか」、「誰のために生きるのか」を教わることはありません。
その結果、ただ何となく大人になったら仕事をしなきゃいけないんだな、仕事をするためには、自分がやりたいと思うこと、自分でできそうなことを選んでいかなきゃいけないんだな、くらいの感覚で生きていたりします。
「どう生きるか?」のhow toを教わることはあっても、もっと根源的なこと、「なぜいきるのか」を教えてもらえることはありません。
このため、こういったことは自分で見つけて、自分なりに答えを出して生きていく、そんな感じで、ただ何となくぼんやりと生きていくのがこれまでのあり方だったのかもしれません。
もちろん、こういった哲学的・人生論的なことに明確な答えはありません。
だから、極端なことを言えば、こういった問いかけをしなくても、十分に生きていけます。
しかし、それだけでは、ちょっともったいない感じがします。
こういったことをもっと、多くの人が話し合う必要があるのだと思います。
漠然と生きていると、自分を生きることが難しくなってしまいます。
氣がつくと自分のためではなく、別な何かのために生きることになってしまいます。
人は誰でも、自分のために生きています。
しかし、この「自分のため」をもう少し掘り下げる必要があるのかもしれません。
なぜかといえば、人が本当に自分のために生きれるようになると、「自分がすべきこと」、「心からやりたいこと」、「これをすれば幸せになれる」ということができるようになっていくものです。
しかも、自分がすべきこと、心からやりたいこと、これをすれば幸せになれるといったことをしていると、それが必ず他者の役に立つようになっていきます。
なので「自分のためにできること」をもっともっと追求していってもいいのではないかと思います。
映画「君たちはどう生きるか」の主人公の眞人(まひと)は、石を積み上げることで世界のバランスを司る老人から、「この仕事を引き継ぎなさい」と言われますが「NO」と答えます。
この眞人が「NO」という所が「君たちはどう生きるか」のクライマックスなのだと思います。
一見すると老人がしていることはとても重要なことのように思えます。
しかし、眞人の心には全く響かないのです。
老人がしていることは、自分のやりたいことではないと直観的に理解し、はっきりと「NO」というのです。
この瞬間から、眞人は一人の少年から大人へと変わっていきます。
我々は、一人ひとりがパズルのピースです。
我々、一人ひとりの姿形やその個性は異なっていて、ジグソーパズルのようであり同じ形のものはありません。
我々は、全く異なった個性を持ってこの地球にやってきて生きています。
我々が、今日という日を自分のために生きるようになり、生まれ持ったそれぞれの個性を活かして生きることができるようになれば、パズルのピースが上手く噛み合っていき、大きな一枚の絵を完成させることができるようになるでしょう。
その大きな一枚の絵を完成させることが、我々の魂の願いであり、それを達成するために、我々は、この世界に生を受けているといっていいでしょう。
誰かの作為のために生きているのではありません。
我々は、自分自身を生きることで、全く新しい一枚の絵を生み出しながら更新し続けることができるようになるのです。
そのためにも、まずは今日という日を自分のために生きなければなりません。
今日という日に自分を生きることができれば、誰かのピースと結合できるようになります。
今日という日を自分を活かしていくことで、他者を補い他者から補われて生きることができるようになります。
そうすることで、一枚の大きな絵を創り上げていけるようになるのです。
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自分を生きるとは、大それたことをすることではなく、今この瞬間を自分に満足して生きることでできます。
目の前のことを「いまここ」に向き合っていくことでできることです。
人は、愛する人や愛する物事を前にするとき、必然的に「いまここ」になることができます。
愛する人や愛する物事を前にするとき、魂を輝かせることができ「いまここ」で生きていけるようになります。
逆にいえば、人は「いまここ」で生きることができれば、そこに「愛」を
生み出すこともできるでしょう。
そのためにも、まずは「いまを生きる」ところから始めるといいのかもしれません。
いまを生きれば、そこには必ず氣づきが生れます。
そういった氣づきが「自分を生きること」に繋がっていきます。
いまを生き、たくさんの氣づきを得れば得るほど、それだけで自分を生きられるようになっていきます。
そういったたくさんの氣づきが、自分を活かす道に繋がっていくことでしょう。
自分を生きられるようになると、自分を愛せるようになります。
自分を愛せるようになると、今度は自分に集中することができるようになり、自分に集中できるようになると、ますます自分を生きられるようになっていきます。
自分を生きれば、全体のピースの一部になることができるのです。
個は全であり全は個です。
多くの人が個である自分を生きられるようになると、全という一枚の絵がどんどん大きくなっていきます。
我々の望みは、できるだけ多くの人で一枚の大きな絵を描くことです。
「どう生きるのか」「どう自分を活かして生きるのか」、そういった問いかけが、「全」という大きな絵を創り上げるきっかけとなることでしょう。
我々は目には見えないところで繋がっています。
その繋がりを太くするためには、自分を生きるところから始めてもいいでしょう。
自分を生きること、それが我々のすべきことです。
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