「私の宇宙」の自由と責任を、ひとり一人が持っている
「私」が存在するこの宇宙は、「私の視点」でしか見ることができない。
どうあがいても、他者の視点でこの宇宙を見ることは出来ない。
つまり、「私」が見ているこの宇宙は「私の宇宙」ということができるだろう。
もちろん、多くの人が「私」と同じ現象を見ている。
アメリカの大統領選でトランプ氏が当選したり、大谷翔平選手がMVPを獲ったり。
そういった現象を、多くの人が目の当たりにしている。
しかし、そういった現象をどのように捉えるのかは、まさに人それぞれであり、全く同じ視点、同じ思考、同じ感情を持つことは出来ないといっていい。
我々は、今という瞬間に同じような現象を共有しているけれど、見方や感じ方が異なるということは、それぞれがそれぞれに「私という宇宙」を持っていることになる。
そして、この「私という宇宙」をいかにして運営していくのか、それを決めるのは他でもない、この「私」ということになる。
「私」とは、「私という宇宙の創造主」である。
今晩、カレーが食べたいからカレーを創って食べるのもこの私であり、家を綺麗にしたいから掃除をするのもこの私である。
行動することのすべての決定権は、常にこの私にあるものであり、他者に言われて何かをするにしても、それに同意するのもこの私である。
だから、すべての意思決定は、この私がしているということになる。
我々は、何を決断するにしても、そこには完全な自由意思が存在している。
基本的に、人間一人ひとりは自分で出来ることであれば、何をしてもいいのだ。
もちろん、法律によって禁止されていることも存在している。
しかし、この世界で戦争が禁止されていないということは、人は何をしても自由であるということがいえるだろう。
とはいえ、何をしてもいいという自由がある一方で、自分がしたくはないことはしないという決定権も私が持っている。
だから「私」という存在は、私の思いによって運営しているということになる。
では、この私をどのように運営していけばいいのか。
どのようにすれば、この私を私の宇宙で創造できるようになるのか。
我々は、意識的にせよ無意識的にせよ、自分自身をどのように創造させていくか、というテーマを常に持って生きている。
この宇宙の中で、自分に対する決定権を唯一持っているのがこの私であり、その決定権を使って、どのように自分を創造させていくのか、そういったことを考えながら毎瞬毎瞬を過ごしている。
だからこそ、人は誰もが未来の自分の姿を想像するといっていいだろう。
そこで自分が望むような未来を過ごせるようになるためにも、自分の思いや考え、自分の感情や感覚を深く知り、どうやって生きていきていくのが最善であるか探って決め、それを軸にして生きていく必要がある。
この私が、私という存在のための法を作り、その法に従って私を運営していく。
私を活かせる法を作り、それを軸にして私を生きられるようになれば、望む私を創造できるようになっていく。
軸という法を持って生きること。
このことが自分を生きるためには、とても重要になってくる。
この私をいかにして輝かせることが出来るのか、そういった視点で自分ならではの法を生み出していく。
これがこの私を活かしながら生きる術となる。
この「私」にすべての決定権があるということを深い部分で納得することができたとき、人は自分自身を生きられるようになる。
自分の望むことができない理由を、他者のせいしている限り自分を生きることは出来ない。
この「私」に与えられた自由という名の決定権を他人に委ねてしまえば、自分を生きることができなくなり、その結果、他者を責めてしまうことになる。
決定しているのはすべて自分であり、その決定に責任を持つ。
私の決定権と他者の決定権が合致すれば、それは共同創造になるが、私の決定権を放棄して他者の決定権に従ってしまえば、自分の望む創造ができなくなってしまう。
だからこそ、常に自分の思いを精査しながら決定権をいかに使うかを決めていかなければならない。
この私は、私の宇宙の創造主であり支配者であり、この宇宙でのプレイヤーでもある。
この私の宇宙をどのように創造するのかは私の自由であると同時に、その責任はすべてこの私が持っている。
ひとり一宇宙。
ひとり一人の宇宙の自由と責任を、それぞれが持っている。
こういった認識を持つことで、自分の人生を創造できるようになる。
我々一人ひとりに与えられた自由と責任を行使して生きること、そこに生きることの喜びの本質が存在している。
この誰もに与えられている自由と責任を行使して生きていける人が、私という宇宙の創造を楽しめるようになって、自分ならではの人生を歩んでいけることだろう。