第51回:「喜び」で生きると「強気」になる
今回は、「喜び」で生きると「強気」になれるということを書いていきます。
どういうことかというと、「喜び」で生きていると自然と「強気」になってしまうということです。
なぜかというと「喜び」で生きていると、出来ることがどんどん増えていくので、いろんなことに「挑戦」したくなっていくからです。
「挑戦」とは、自分に「自信」があるからこそできることであり、この「自信」が人を「強気」にさせていきます。
また、この「強気」とは「絶対に勝ってやる」というような意気込みのことではなく、「確固たる技術」によって裏付けらた「確信」のことだったりします。
「手応え」が人を「強気」にさせる
「喜び」には「手応え」が欠かせません。なぜかというと「喜び」とは「手応え」だからです。
「手応え」を分かりやすくたとえると、釣りをしていて浮きの動きに合わて、竿を引く感じといってもいいかもしれません。
つまり、「手応え」とは「快感」を得たときの瞬間のことであり、この「手応えという快感」を味わいたくて人は生きているといっていいでしょう。
たとえば、サッカーの日本代表の三苫選手のドリブルはそういった類のものだと感じます。彼のドリブルは、相手を抜き去ることの快感によって生まれたものなのではないかと思うのです。
彼のドリブルの仕方は、まさに釣りと一緒で、ボールを餌にして相手を誘い込み、誘い込んだ相手を一気に抜き去ることで「快感」を得ることができているように感じます。
もちろん、三苫選手はサッカー選手なので、ゴールを得ることで「快感」を得ていますが、おそらく、彼はゴールを得ること以上にドリブルという「快感」を求めているし、その「快感」が彼の存在理由となっているのだと思います。
そして、三苫選手にはドリブルを仕掛けるという「快感」が「手応え」になっているからこそ、「強気」でどんな相手にでも向かって行けるのだと思います。
「強気」は、「反復」によって生み出すことができる
何かを新しく始めたときは、誰もが「強気」になることはできません。どんなことでも最初は「恐る恐る」だったりします。
この「恐る恐る」を克服するには、反復することが必要です。また、この「恐る恐る」を「強気」の域まで到達させるためには、「手応え」という「快感」が必要だったりします。
先ほどの三苫選手の例でいうなら。どんな相手でもドリブルで抜き去ることができるという「手応え」が「強気」の原因になっていて、この「手応え」はたくさんの反復練習によって得られたものといっていいでしょう。
つまり、「強気さ」を作っているのが、何度も繰り返された練習にあるのです。同じようなことでも、それを繰り返ししていると、思考と身体の動きがリンクできるようになるため、スムーズに動けるようになっていきます
このスムーズさが、やがて「手応え」となって、この「手応え」を積み重ねていくことができると人を「強気」にさせていくのです。
人を「強気」にさせる背景には、こういった度重なる「反復」と、そこから得られる「手応え」という根拠が存在するといっていいでしょう。
「喜び」の入り口は「楽しい」と感じられるかどうか
同じことを反復するということは、そこに「楽しさ」が欠かせません。
だからこそ、何かを始めたとしても「楽しさ」を感じられないという理由で、辞めてしまったりするものなのです。特にスポーツなどは体力的な面での個人差があるため、「楽しさ」を感じられるかどうかは人によって異なるといえます。
しかし、こういったことはスポーツに限ったことではなく、誰もが経験する学業にもあてはまることです。物理を好きになる人と歴史を好きになる人では、きっと目には見えない何かしらの違いがあことでしょう。
とはいえ、楽しくなくても反復していると、やがてコツを掴めるようになっていきます。たとえば私が、毎日、1時間必ず物理の本を一年かけて読み続ければ、いずれ物理を好きになって、物理の素晴らしさについての記事を書くことも可能になるでしょう。
つまり、「楽しさ」は反復によって作ることもできたりするのです。ネットで調べたところ「1万時間の法則」という法則があり、1万時間もの練習・努力・学習をすれば、「楽しいか」どうかは別にして、どんなことでも一流の技術を身に付けられるようになるということです。
この「1万時間」は1日あたり1時間勉強した場合に30年間かかるという計算になるそうなのですが、たとえば、これを仕事になぞらえて、ひとつのことを1日8時間、350日したとすると、合計時間は2800時間になります。さらに、この2800時間を3.6年という数字を掛けると10080時間になるため、人が三年半、一つのことに打ち込むことができたなら、一流の技術を身に付けられるようになるといっていいでしょう。
そう考えると、「石の上にも三年」という慣用句にはれっきとした根拠があるということがわかります。
また、人間国宝と呼ばれるような人は、それこそ何十年単位で一つのことを打ち込んでいるからこそ、国宝と呼べるような作品作りや表現ができるようになるということも理解できたりします。
とはいえ、やはり「楽しい」と感じられることをすることが大切なのではないかと思います。なぜかというと、私は3年以上していた仕事も「楽しい」と感じることができず何度も辞めてしまっているからです。
もちろん、私が仕事を辞めた理由が仕事内容だけではなく、人間関係が原因だったこともあります。しかし、そういった場合であっても異業種に転職していたりするので、単に人間関係という理由だけが仕事を辞めた理由ではなかったりします。
やはり、「私」という個性の中には「得意不得意」や「好き嫌い」が存在していて、この「得意不得意」や「好き嫌い」をちゃんと認識できないと、「楽しい」という感覚を得ることが難しいのだと思います。
とはいえ、この「得意不得意」や「好き嫌い」をしっかりと理解できるようになれば、無理に「1万時間」かけなくても「手応え」という「快感」を得られるれるようになるといっていいでしょう。
「好きなこと」ならすぐに「手応え」を感じられるようになる
私は読書が好きだったりしますが、やはり、好きなジャンルの本を読むときと、興味のないジャンルの本を読むときででは、読める量も理解できているの量も大きく異なります。
単に読書が好きだからといっても、その内容によっては「得手不得手」があるといってよく、「得意不得意」や「好き嫌い」によって効率の差が生まれてしまうものなのです。
こういった理由から、「好きなこと」なら「一万時間」かけなくても「手応え」を得られるようになると私は考えます。
好きなことであれば、そこに「探求心」や「好奇心」が存在しています。そういった「探求心」や「好奇心」は、新たなアイデアや直観を生み出す働きがあるため、そのアイデアや直感によって「手応え」が得やすくなります。
さらに、そうやって何度も「手応え」を感じられるようになっていくと、それがその人の自信になっていきます。この「手応え」は「快感」でもあるので、自然と反復を楽しめるようになっていくため、今度は、この反復が確固たる「技術」となっていくのです。
「喜び」と「強気」は同意
人が「喜び」で生きるとき「強気」になります。
三苫選手は見た目は冷静ですが、気持ちは強気だと思います。そうでないとイングランドのプレミアリーグで、百戦錬磨の相手に果敢にドリブル突破を挑むことはできません。
メジャーリーグの大谷選手も同様に強気だといっていいでしょう。彼はいつもニコニコしてほがらかなイメージがありますが、それは彼の確固たる技術から生まれる「余裕さ」だと思います。
将棋の藤井竜王も、見た目は大人しそうですが、机上では誰にも負けないくらい「強気」だといえるでしょう。というのも、彼には誰にも負けないくらいの「技術」があるからです。
そして、三苫選手も大谷選手も藤井竜王も見ている私たちをワクワクさせてくれるのも、彼らの技術に裏打ちされた「強気の姿勢」があるからです。そういった「強気の姿勢」が私たちを楽しませてくれるといっていいでしょう。
そこでもし、彼らと同様に、私たちが自信を持って「喜び」で生きていけるようになるためには、好きなことを夢中になって反復していくことで技術を身に付けていけばいいということになります。
人は誰でも好きなことを夢中になってやっていると、自然に技術を身に付けることができるようになるものです。
つまり、好きなことを楽しみながら夢中になっていれば、自然と技術を身に付けられるようになるため、その結果、「強気」で生きていけるようになっていくのです。
そしてもちろん、果敢に挑戦した先にあるのは「喜び」です。この「喜び」は、挑戦できたという喜びなのです。
人が成功するために必要なのは「楽しさ」であり、この楽しさが「成功」と「喜び」の入り口なのです。
このことを理解して生きていくことができれば、人生は意外と簡単に楽しめるようになるものなのです。