72)「私」という「自然」を生きる
今日は「信じる」ということを、思いのままに書いていきます。
情報が少なかった時代は、「信じる力」が強かったように思う。
その一方で情報の比較ができない分、「妄信」してしまうということもあっただろう。
現代は、情報が多い分、信じる力が弱くなっているのかもしれない。
しかし、妄信することも減ったといってもいいだろう。
信じる力が強いといいことは、行動に迷いがなくなる点。
信じたことを規範にし、それに従って行動すればいいから迷いが少なくて済む。
迷わすに行動できることは「強さ」に繋がっていくから信念が行動規範になる。
人は迷わずにスイスイ生きていきたいと思うもの。
だから核心的な情報を欲する。
しかし情報の多さが迷いを生み出す。
情報が多くなればなるほど、正解を見出すことが難しい。
迷いをなくすためにさらに情報を取に行くと、かえって迷路にまってしまうことさえある。
だから、情報だけではなく自分で実践して納得する必要があるだろう。
南方熊楠は、日本の民俗、伝説、宗教を広範な世界の事例と比較して論じ、当時としては早い段階での比較文化学(民俗学)を展開した、といわれる。
幕末の慶応に生まれ時代の転換期となった明治を過ごした南方は、日本の情報と西洋の情報を比較することで、彼自身が納得できる答えを見つけようとして奔走したといっていい。
核心的な情報を取に行くとなると情報の精査が必要になるから、様々な情報の中から共通する法則を見つけなければならない。
西洋と東洋といった垣根を超えた共通する原理原則を見つけなければならない。
だから南方が自然に目を向け粘菌などの生物学者となるのは必然だったのかもしれない。
自然には東洋と西洋という垣根がない。
以前、記事にも書いたことのある、リンゴ農家の木村秋則さんは、自然を仕組みを理解することで無農薬でのリンゴ栽培を可能にしている。
自然の中の法則は、人間の思考を超えた働きをしていて複雑で言葉で説明するのは難しいが、実に理にかなっている。
自然を知ることでこの世界の法則を見出す行為は普遍に繋がるのだ。
老子は自然の視点で真理を説く。
孔子は人の視点で真理を説こうとした。
人の視点での真理は分かりやすい反面、万人には通用しない。
孔子の視点は政治限定といっていい。
自然はすぐには理解できなくても、普遍的だから腑に落ちれば応用可能になる。
普遍的な法則ほど理解しがたいし、それを頭で理解しても実践するは難しい。
その難しさがジレンマとなる。
しかし、そのジレンマを超えて理解できるようになると悠々と生きることができるようになる。
だから、老子は人から離れ自然の中に入って行く。
腑に落ちた物事が信念になり迷いを消すから、あとはそれを実践していけばいいだけとなる。
逆に実践しつづけることで腑に落ちることもあるだろう。
柔道や剣道、茶道や書道などの「道」の付く行為は、経験を重ねながらその中に潜む真意を見出していくものであり、経験を通じて腑に落とすべき真意を浮かび上がらせる。
実践を通じて得た情報は思考と行動を一致させることができるようになるから、行為で迷いを消すことができるようになる。
「道」は、迷いを断つために存在していたといってもいいかもしれない。
信心は心と身体を一致させることで生まれていく。
行為の中に潜む真実を見つけ出す。
情報の少なかった時代は、特定の偉大な人の教えを信じることが主流だった。
しかし現代は情報が多い分、特定の偉大な人は生まれないし、多くの情報が存在する中から、どれをチョイスするかは自分次第になっていく。
そして、最後は外の情報ではなく内なる情報を取に行くしかないと気づいていく。
「私」という生命には延々と受け継がれてきた情報が潜んでいるし、自分の中から見い出した情報ならばすぐに腑に落とすことができるだろう。
まずは内在から情報を見出し、それを外の情報を照らし合わせ精査していく。
直観的な内なる情報を外の情報で肉付けしていく。
これからは、ますます情報過多になっていくから内観する力が必要になってくるし直観的な感度も必要になってくるだろう。
いずれにせよ、情報が多い分、信じることの拠り所が「自分」になっていくといっていい。
だから心から自分を信じられるようになると、すべて上手くいく。
自分を信じられずに成功することはない。
「迷い」とは自分に迷うことであり、「信じる」とは自分を信じることである。
自分を完全に信じることができれば、それが成功といってもいいかもしれない。
自分に自信を持てるようになることが成功となる。
「私」という存在が、ここに存在するのは自然のことであり、その自然さに驚くことができたとき、自分を信じることができるようになる。
「私」の中にある自然に気づくことができれば、迷いがなくなるといえる。
迷いがなくなれば、信じる必要もなくなることだろう。
そのとき、自然の一部に帰還することになる。