83)「守破離」で自由に近づいていく
日本の「道」の付く武道や芸術などで用いられる言葉で「守破離」という言葉がある。
ウィキペディアで引用してみる。
何か新しいことを始めるとき、真似をするところから始まる。
どんなことでもそうだけど、何かを真似るだけでもそう簡単に上手くいくことはないため、何度も何度も繰り返し練習していく必要があるといっていいだろう。
ひとつの型を心と身体に刻みこめるようになるまで反復する。
この繰り返しの期間はいわば、基礎を身に付ける期間になる。
とはいえ、繰り返しは単調な作業になることもあり飽きることもある。
しかも「型」に自分を合わせることになるため、それがストレスになることもあるだろう。
このため「守」の期間は修行になるといっていい。
そこで、この修業期間を超えられるかどうかが、身に付けようとすることを習得できるかどうかの鍵となる。
では、この修業期間をどのようにしていけば乗り越えられるかというと、次の三つの要素が必要になってくる。
① 必ず習得するという決意を持つ
② 楽しんでできるように工夫する
③ 期待感を持つ
修業期間に対峙しなければならないのは、今風の言葉にすれば「ストレス」が当てはまる。
人は何かを始めるとすぐに上手になりたいと思うものだが、なかなかすぐに上手くならないものであり、それがストレスになる。
ストレスとなる原因は、頭で理解できてもそれを身体で上手に表現できなかったり、理解しようと努めているものの、その内容が難しすぎて理解できないこともストレスになることもあるだろう。
それでも、少しでも上手くなっている上達していると感じることができればストレスを感じなくなるものだが、全くそういった手応えがないとストレスを感じることにになる。
いずれにせよ、「守」の期間にストレスを多く感じたりすると、挫折することもあるだろう。
もちろん、挫折することも人生では欠かすことの出来ない経験だから、それはそれで問題ないし、その挫折から何かを学び、再度、新たなことに挑戦することも大切な行為といってもいい。
挫折は、本当に自分が何を求めているかを知るきっかけとなる。
とはいえ、あることを本気で習得しようと思うのであれば、そういったストレスを超えていく決意が必要だし、ストレスを感じないようにする工夫、つまり、楽しんでできるようにすることも欠かせない。
立場を変えて、教える側の視点に立つなら、教える相手にストレスを感じさせないことが大事になってくる。
よき師匠には「飽きさせない」「気づきを与える力」が必要なのかもしれない。
また、教える側と教わる側の間に信頼関係が構築していくことでもストレスを緩和することもできる。
「守」の段階というべき修業期間は、ストレスとの対峙する期間でもあり、そのストレスを感じなくしていく期間でもある。
そして、習得しようとする行為にストレスを感じなくなるようになってはじめて、次の段階に進むことができるようになる。
一つの型を臆することなく、自然な振る舞いで出来るようになればいい。
「ストレスを感じない状態」を別な言葉でいうなら「習慣」といっていいだろう。
どんなことでもやり始めの頃は「恐れ」があったりするけれど、そういった恐れがなくなって力むことなくできるようになると、それが習慣となる。
習慣とは、それをしようと思うだけで、あとは身体が自然と動いてしまうようなものだからストレスを感じることはない。
こういった状態になると、今度は少し物足りなくなってくるから、今度は違ったやり方を試したくなるものであり、その状態になると「破」の段階に進めるといっていいだろう。
つまり、「破」の段階では、意図して自分にストレスを掛けていくことになる。
これまで必死になって習得し習慣にすることができたものを、あえてそれを破って、今度は自らの意志で「ストレス」を掛けていくのだ。
とはいえ、このストレスは、自分で掛けるストレスだから「守」の頃のようなストレスではなく、いわば楽しんで自分に負荷をかけている状態といっていい。
逆にいえば、それまでは一つの形に注力を注いでいたわけだから、違うやり方を試すということは氣付きの連続になることもあり、スポンジが水を吸収するかのように、新しい考えや技術を習得できるようになっていくもの。
もちろん、それまでの習慣を変え新たな習慣を取り入れることは、苦痛を感じることもあるだろう。
しかし「守」の時代に得た基礎が「破」で新しいことを得ようとする行為を楽にするものであり、「守」で得た基礎があるから、それを応用すればいいためストレスを感じることは少なくて済むし、むしろそういったストレスも楽しみの一つになったりするもの。
そして、様々な試みの果てに自分にあった「型」が自然と生まれてくる。
「守」の時代の経験と「破」の時代の経験から、自分に合ったやり方が自ずと生み出されていく。
「守」と「破」の経験が融合され、新たな「氣付き」が生まれ「喜び」を感じつつ、自分なりのやり方を確立していく。
自分なりの型を見つけた「喜び」によって、「離」の世界に入って行くことができる。
これは、先ほどの引用の中の「離」について。
「離」の状態になることができてはじめて人は自在になるものであり、「自由」を感じられるようになるものである。
したがって「自由」とは何をしてもいいということではなく、「基礎」と「応用」の二つができるようになって、新たな自分なりの形を生み出すことで「自由」になれるようになる。
「自由」を獲得できるようになるには、「守破離」の経験をすることになるため、ある程度の時間が掛かるもの。
しかし、いい方をかえるなら、ちゃんと時間を掛けて学んでいけば、「自由」は必ず手に入るといえるだろう。
そこで、先ほどの3つの要素が欠かせないといっていい。
① 必ず習得するという決意を持つ
② 楽しんでできるように工夫する
③ 期待感を持つ
「守破離」のどの状態のときでも、この3つを忘れずに実践することができれば望む物事を習得できるようになると考えられる。
特に「守」のときほど、この3つの心掛けが大切であり「破」や「離」の状態に達することができれば、あとは自分の意志で習得したい対象に向かって行けるようになったりする。
何かを始めるときに、こういった原理があるということを知っていると、ちょっとした壁に向かい合ったとき、その壁を超えることができるようになるるもの。
今を楽しみながら、未来に対してワクワクするという期待感があれば、「修行」は「楽行」に変えることができる。
「自由」は「楽しみ」に到達することでもあることから、「楽しむ」ことと「期待感」が欠かすことができない。
「守破離」の道理を知って歩んでいけば「道」は開かれる。
「自分」が「自在」になれば「自由」となる。
自分を分けず、全存在を「在る」に変えることができれば、自分を由(よし)とし「自由」になれるものなのだ。