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第28回:「喜び」で達成感を得る

前回はカナダの心理学者のバンデューラの「自己効力感」と「喜び」の関係についての話をしました。

あらためて「自己効力感」のおさらいをすると、「自己効力感」とは、目標を達成するための能力を自らが持っていると認識することを意味します。そして、この「自己効力感」を持っている人ほど、実際にその行動を遂行できる傾向にあるとバンデューラは説いています。

「自己効力感」は以下の6つの経験によって得られるとされています。

1.達成経験
最も重要な要因で、自分自身が何かを達成したり、成功したりした経験
2.代理経験
自分以外の他人が何かを達成したり成功したりすることを観察すること
3.言語的説得
自分に能力があることを言語的に説明されること、言語的な励まし
4.生理的情緒的高揚
酒などの薬物やその他の要因について気分が高揚すること
5.想像的体験
自己や他者の成功経験を想像すること
6.承認
他人から認められること

そこで、今回から6回に分けて、これらの項目を私なりに一つづつ解説していきます。本日は【1.達成体験】について書いていきます。

達成体験は「欲求」によって生まれる

人は何かを手に入れたい、何かを達成したいという欲求をを持って生きています。特に人は退屈を嫌う生き物であり、欲求の根本には何かをしたいという思いがあるといっていいでしょう。

人は、生まれたばかりでも何か楽しいと感じることを求めています。赤ん坊の頃は、笑顔を見せれば周りの人が反応してくれるため退屈をしのぐことができます。

また身体を動かせるようになるとハイハイしたりして家の中を動き回ることで退屈感をしのぐことができます。こういった感じで、人は幼いころから何かをしたいと思って動く欲求を持っていて、その内容を変えながら人生を終えるまで欲求を満たすために生きるといっていいでしょう。

この何かをして楽しみたいという欲求は、おそらく人間という生物の設定の中に組み込まれていると考えられます。そして、楽しみたいという欲求を満たすことができたとき、人は達成感を得られるようになります。この達成感が「喜び」であり、この「喜び」を求めて人は生きているといっていいでしょう。

「欲求」の対象が異なるため個性が生まれる

人間は成長とともに知能が発達していくため、出来ることがどんどん増えていきます。また出来ることが増えるようになると、簡単にできることに退屈感を覚えるようになって、新たなことに興味を覚えてそれに挑戦し、それができるようになるとまた違った達成感を求めて動いていきます。

人生はこういった挑戦と達成の繰り返しで出来ているといってよく、生きている中で挑戦する課題や質を変えながら、自分という自我を作って変化させていくことになります。

人は成長していく過程で、楽しいと感じることが異なっていくため、欲求の対象も異なっていきます。こういった違いが生まれる背景には、生まれ育った環境や生まれ持った性格、身体的特性といった要因があります。そしてこれらの要因が、様々な形で組み合っていくことで、求める対象に差異が生まれるようになるといっていいでしょう。

達成体験は「喜び」で得られる

達成体験は「喜び」で得られるようになります。また「喜び」によって得られる達成体験には、ある程度の難しさが必要だったりします。なぜなら、簡単にできる物事だと「喜び」を感じることができないからです。

テレビを見ていて「楽しい」と感じたとしてもそこに達成感はありません。しかし、自分で動画を創って完成させることができると「喜び」を感じることができ、達成感を得られるようになります。美味しい料理を食べて得る「喜び」よりも、料理を作って周りの人に美味しいといって貰えた方が「喜び」は大きいといえるでしょう。

こういった感じで、達成感を感じる「喜び」は、難易度の高い物事をすることで得られるようになります。難しいと思われることを達成するには、時間と労力が必要になります。

何かを実現させようとするには、どうすればいいか調べ、必要な道具を揃え、実際にやってみて試行錯誤を繰り返し、いい結果を得られたときに達成感を得られるようになります。つまり、頭で考えて身体を使って様々な体験を積んだ上で得られるのが「喜び」という達成感です。

人はこの「喜び」という達成感を得ることができたとき、退屈さを完全に忘れることができるようになり、自分自身の存在を認められるようになります。こういったことが自己効力感の始まりであり、退屈な自分から楽しい自分へと変換できる瞬間です。

別ないい方をすれば、生きているという実感が「自己効力感」といってもいいかもしれません。「自己効力感」は達成体験を重ねていくことでその強度を上げていくことができます。

「喜び」に従って生きるのは自然なこと

人が楽しそうにしている人に憧れを抱くのは、人は誰もが「楽しみたい」、「喜び」を感じたいという欲求を持っているからです。だからこそ、身の回りの人をはじめ、本やテレビ、インターネットを通じて楽しんでいる人の姿を探して、そういった人を参考にするようになります。

私たちには本能として「喜び」を感じたい、何かを達成したいという欲求が備わっています。実をいうとこういった人間としての本能に気づくことができれば、自分の人生をどう生きていけばいいかということが理解できるようになります。

人間の本能が「喜び」を感じ、何かを達成したいというものであるならば、そういった思いに従って生きるのが自然だということになります。なぜなら、楽しくないと感じることをしていては「自己効力感」を感じられないし、「生きている」という実感を得ることができません。

「生きている」という実感を得られなということは、身体は生きていても、精神は死んでいるといってもいいでしょう。人が我慢して生きる道を選ぶということは、退屈な道を選ぶということになるため、この世界で生きていることに意味を見出せなくなってしまいます。

このことに気づいてしまうと、我慢して生きるという道を選べなくなってしまいます。何かを達成し「喜び」を感じて生きること以外できなくなってしまうのです。

また、こういった気づきを得ることができると、自分自身を自然な形で肯定できるようになり、「喜び」を選んで生きればすべて上手くいくようになっていると思えるようになります。人が「喜び」で生きることが当然のことであるため、失敗するということがないということを理解できるようになっていきます。

「喜び」という達成体験は「魂の目的」

魂の視点で物事を考えると、なぜこの世界に「私」が存在しているかが見えてくるようになります。というのも「喜び」を感じることは、魂も「喜び」を感じているからです。そして、そういった喜びの中でも、自分にとってかけがえのない「喜び」を見出すことができるとこの世界に存在している意味を感じ取ることが出来るようになります。

この自分にとってかけがえのない「喜び」を、自分の核心となる確信的な「喜び」といってもいいかもしれません。こういった自分にとっての本質的な「喜び」に出会えたとき、魂の目的にたどり着けたといってもいいでしょう。

私たちは「喜び」という達成体験をするために、この世界に存在しています。「喜び」を得ることで人生を楽しむためにこの世界に存在しているといっていいでしょう。そして、あなたや私が今この瞬間「喜び」を感じることで魂の目的に近づいていくことができます。幼い子供が年齢を重ねること興味対象が変わって進化していくように、大人になった私たちも「喜び」と「達成感」を重ねていけば必ず進化していくため、その可能性には限りがありません。

二極化とは「喜び」で生きていけるかどうか

達成感を得られる「喜び」を得るコツとして、少し難易度の高いことに挑戦していくことだったりします。少しだけハードルの高いことを頭とからだを使って体験を積んでいいけば、人生に終わりがくるまで楽しんで生きていくことができるようになるでしょう。もちろん、魂の視点に立てば、この人生が終わったとしても「喜び」を追い求めることは続いていくはずです。

といったわけで、バンデューラの「自己効力感」の「達成体験」と「喜び」の関係性について書いてきました。これからは、ますます二極化が進んでいくと考えられますが、この二つの分岐は、魂の欲求でもある自分にとっての「喜び」従って生きられるかどうか、ということかもしれません。

もし私たちが魂の欲求に従って「喜び」で生きることができたとき、意識の次元を上昇させ、新しい視点を取り入れながら楽しみながら生きていくことができるようになるでしょう。

次回は「自己効力感」の二番目の項目である「代理体験」について書いていきます。私がこのサイトで何度も取り上げてきた人の例を使いながら、それをどのように取り入れていったらいいかについて書いていこうと思います。


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アキタロウ
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