大江健三郎『取り替え子(チェンジリング)』
『個人的な体験』以来一年半ぶりに大江健三郎を読みたくなった。
なんとなく読みごたえのある小説を読みたくなって、最初に思いついたのが大江健三郎だった。
最寄りの公共図書館の文庫の棚を見に行くと、大江の文庫本は『燃え上がる緑の木』全3巻(新潮文庫)と『取り替え子』(講談社文庫)の2タイトルのみ配架されていた。
『燃え上がる緑の木』はすこし読みごたえがありすぎるかなと思い、ほとんど選択の余地もなく『取り替え子』を借り出した。
『取り替え子』(2000年刊行)は、『個人的な体験』と同様に作者自身に関わる現実に題材をとった、いわゆる「モデル小説」である。
「私小説」とは異なり完全なフィクションではあるけれども、同時にその小説世界は作者自身が抱える問題と深いつながりを持ちつつ創造されたのだろう、と推察される。
それは、実生活において作者自身が直面する問題の内なる世界を昇華するものとして生み出されたフィクション、とでも言ったらよいのだろうか。
本作で題材にとられた現実とは、有名な俳優であり映画監督の飛び降り自殺(1997年)である。その映画監督は、少年時代から大江と深い親交を持ち、大江の妻の実の兄でもあった。そのような事件や人間関係、さらには知的障害のある息子の存在といった家庭状況も含め、小説には作者の現実が映し出されている。
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世界に名を知られた作家である主人公の古義人は、ある夜ふけに突然に妻の千樫から起こされ、義兄である吾良の死を知らされる。
吾良は生前、三十巻を超えるカセットテープに自分の声を録音して、古義人に渡していた。さらに新たな録音は吾良の死の直前まで補充され、届き続けていた。
古義人はそれらのカセットテープをヘッドフォンで聞き、再生と一時停止を繰り返しながら、自分に語りかける吾良の声と対話を重ねる習慣があった。
吾良の死後も、古義人は残されたカセットテープを通じた吾良との対話(作中ではヘッドフォンの形状から「田亀のシステム」と名付けられている)を止めることができない。
そのような悲哀と無為の数か月の後に、大学の講座を受け持ったベルリンでのひとり暮らしを経て、古義人はなおも吾良の死の意味を探りつつ、田亀を通じての吾良からの呼びかけに応えるように、これまで小説家として書かずにいた主題に取り組むことを決意する。
それは古義人が「自分はアレを書くために小説家になったのだ」とも思えるような主題であり、アレとは十代の古義人と吾良が故郷の森で体験した衝撃的な事件である。
古義人は、「あまり遠くない自分自身の死の時」を前にして「アレに正面から立ち向か」うことで「人がその生にただ一度達成できるほどの言葉」を書くことができるのではないかと考えるのだ。
作品はそのような筋立てで展開し、作中でアレと呼ばれる事件についても(一部謎を残しつつ)開示されることになる。
そのような作品の内容と大江の実生活がもしパラレルであるとすれば、大江も本作を彼自身の作家人生で「ただ一度達成できるほどの言葉」として書こうとしたのだろうか?
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ところで本作は2000年の12月に刊行されている。大江は1935年の1月生まれなので、この小説は作家が65歳で執筆し、完成した作品であると考えられる。
私的な話になるが、わたしは現在65歳である。つまり作家が書いた歳と同じ歳になってこの小説を手に取り、読んだわけだ。
最初に書いたように、わたしはこの作品をほとんど無作為に選んだのだが、それにもかかわらず、わたしは、大江にとって人生で「ただ一度達成できるほどの言葉」であった小説を大江が書いたのと同じ年齢で読むという得難い幸運に恵まれた、と言えるかもしれない。
そう考えると、最寄りの図書館の文庫の棚にたまたまこの小説が置かれていたのは、実は「偶然をよそおった必然」だったのではないか、という気さえするのだ。
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以下で、本作の感想として、わたしが書いてみたいことは二点に集約される。
ひとつは「性」の持つ力の大きさ、についてである。
古義人は、吾良が録音したカセットテープの中に「吾良がこちら側の世界に残した、めずらしく明るいしるし」が含まれていた、と千樫に告げる。それは、古義人によれば、吾良の人生の最後の方でそのような人間関係があったことが、自分たちにも積極的な励ましと受け取れるような、そんなしるしである。
吾良が残した「明るいしるし」を私も聞きたいと千樫が言うと、古義人は黙ってそのテープを食堂のテーブルに置いておく。
千樫が聞いたそのテープに録音された声で、吾良は、三年前に映画祭に招かれ滞在したベルリンで吾良の通訳を務めた十八歳の日本人の娘との性的な戯れについて語っていた。
吾良は、この娘が幼かったころの自分と「瓜ふたつ」と言えるほど似ていると感じ、「幼年時の自分の面影を持つ娘」と性交することはできないという理由で決して最終的な行為には至らないというルールを決め、互いに厳格にそのルールを守りながら性的な接触を重ねる。
吾良の声が語るその内容は、性交そのもの以上に濃密で、官能的でありながら、陰湿さはみじんもなく、健康的で、みずみずしく、感動的ですらある。
あえて引用はしないが、5ページほどの描写に圧倒的なエロスがみなぎっている。
それは吾良にとって「生涯で一、二のエロティックな経験」となる。
古義人が晩年の吾良の生活に見いだした明るいしるしとは、圧倒的なエロスの力だった。
ここで強調される「性」の持つ力の意味。
そこには、(次に述べることとの関連で)「性」はときとして新たな人間を生み出すほどの力を持つのだ、という意味が強く含まれていたのではないだろうか?
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もうひとつ書いておきたいことは、「失われた者を取り戻す」という本書の主題とも言えるモチーフ、についてである。
本作は、序章から第六章まで一貫して作者の分身である古義人の視点から語られるのだが、終章に至ると視点人物が千樫へと転換する。
千樫は古義人がベルリンから持ち帰ったモーリス・センダックの絵本に強く惹かれ、その主人公のアイダという少女は私だと思う。
それは本作のタイトルとなった取り替え子を主題とした絵本であった。
アイダは赤ん坊の妹の子守をしていて、油断したすきに、悪いゴブリン(小鬼)たちに妹をさらわれ、氷でできた替え玉を揺り籠に残される。それに気づいたアイダはゴブリンたちの住む洞穴に乗り込み、果敢に赤ん坊を取り返す。
アイダにとっての赤ん坊は、千樫にとっては兄の吾良だった。「才能にあふれて美しく、多くの人から愛された」兄は、ある時から人が変わってしまい、本当の兄ではなくなったと千樫は感じていた。まるで取り替え子のように。
千樫は、吾良が変わった決定的なきっかけこそが、古義人とともに遭遇した少年時代の事件であったと疑っていた。そして、千樫は本当の兄を取り戻したかった。アイダのように。
そんな風に絵本のアイダに自身を重ねる千樫を、ベルリンで吾良の通訳を務めた女性が訪ねてくる。
浦という名前のその女性は、吾良がベルリンで描いて千樫に贈った水彩画のカラーコピーをもらえないか、と千樫に連絡し、千樫の快諾を得てそれを受け取りにきたのだ。
そうして、千樫は自宅で浦の話を聞くことになる。
浦は吾良と別れた後、ベルリンで日本人留学生の男と付き合い妊娠したのだが、今後の学業への支障を憂慮する両親の説得もあって、子どもを中絶するつもりで日本に一時帰国したのだった。男との関係はすでに切れていた。
ところが、浦は中絶を思いとどまり、子どもを生むことを決意する。
そのような浦の翻意のきっかけとなったのは、帰国のフライトの際に偶然読んだ機内誌に掲載されていた古義人のエッセイだったと言う。
浦は、英語で書かれドイツ語に訳された古義人のエッセイの一部を千樫に話して聞かせる。
そのエッセイで、古義人は、戦後間もない子どもの頃の経験を綴っていた。雨の中、いつものように植物図鑑を持って森に入った古義人は発熱し、重い病に臥せってしまう。
医者も手をつけられないほど衰弱した古義人が、枕もとの母に「ぼくは死ぬのだろうか?」と問いかけると、母は「もしあなたが死んでも、私がもう一度、生んであげるから大丈夫」と答える。
やがて回復した古義人は、また元気に学校に通えるようになるが、不意にボンヤリと考えることがある。
そのエッセイの文章がどうして、あなたに子供を産む決心をさせたのか、と問う千樫に対して、浦はきっぱりと答える。
千樫は、両親からの援助を断たれる事態に直面する浦の、ベルリンでの新たな生活の費用の足しに、古義人のエッセイ集のために描いた自身の挿画の分の印税をあてることを決める。
本来の兄を取り戻したかったという千樫の想い、子ども時代の不思議な経験を綴った古義人のエッセイ、そして死んだ吾良の生まれ変わりとなる子供を生むという浦の決意、それらの中から重奏的に本作の主題がたち上がってくるように思われる。
それは、失われた命が、あるいは失われつつある命が、生まれてくる新たな命によって取り戻され、つぐなわれ、慰められて、そして命がつながっていく、そんな主題であったのではないだろうか?
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以上に述べた二つの感想は本作を表面的に撫でたものに過ぎないようにも思う。
大江の文章は独特の陰影を帯び、いわば翻訳調で、暗喩に満ちていて、必ずしもよみやすいとは言えず、しばしば文意をたどろうとする歩みを滞らせる。
それらの文章の底には、間違いなく豊かな水脈がひそみ、息づいていることが予感できるのだが、それを十分にくみ尽くすことができない。そんなもどかしい思いを抱えながら本を閉じた。
「豊かな水脈がきっとあると確信しつつ、それを容易にくみ上げられない」
ひょっとしたら、それは「生きる」ということそのものであるのかもしれないのだけれど……