丸谷才一『裏声で歌へ君が代』、または「国家」について
わたしは一人の作家が気になりだすと、飽きるまで読み続けるという癖がある。
丸谷才一もそんな作家のひとりだ。
昨年の暮れから読み始めて、『輝く日の宮』『笹まくら』『たった一人の反乱』と、まるで亀の歩みのようにのろのろと読みすすめ、先日『裏声で歌へ君が代』を読み終えた。
(その間、図書館で借りた『忠臣蔵とは何か』は早々に挫折した。)
『輝く日の宮』『笹まくら』『たった一人の反乱』については、すでに note に感想めいたものを投稿しており、ここでは『裏声で歌へ君が代』(1982、以下『裏声』)を題材に文章を書こうとしている。
書こうとしているのだが、しかし、わたしにとって『裏声』の読後感はきわめて散漫だ。
それもそのはずで、あらためて手帳で確認すると、わたしは『裏声』を読み終えるのになんと二か月弱もかかっている。
それだけの時間をかけると、もはや小説作品の有機的な実体を生き生きとつかみとることが難しくなってしまう。
長いとは言えたかが文庫本一冊分の小説を読み切るのになぜ二か月弱もかかってしまったのか? 一方で、それだけ時間をかけながらも最後まで読み切った(読み切れた)のはなぜか?
自分なりに考えてみると、第一の問いに対する答えは「夢中になるほど面白い小説ではなかったから」であり、第二の問いに対する答えは「途中でやめてしまうほどつまらない小説ではなかったから」となる。身も蓋もないようだけれど。
個人的には、この小説自体について、それ以上言うべきことはないような気もする。
しかし、だからと言って、この小説を読む意義がなかったかというと、そんなことは決してない。大いに意義があったのだ。どのような意義があったか。
ひとつは、台湾(中華民国)という国の歴史について、あらためて考えさせられた、ということだ。
この小説が発表された昭和57(1982)年当時、台湾は、蒋介石の長男である蒋経国が率いる国民党政府に統治され、未だ戒厳令が布かれた状態であった。
そのような時代状況を背景として、『裏声』は、日本国内で「台湾民主共和国」の国名を掲げて台湾独立運動にたずさわり、その大統領に任じられる在日台湾人実業家(洪圭樹)と主人公である中年の画商(梨田雄吉)との交友関係をとおして、台湾という国家の在りようを描き、その運命に想いを寄せている。
折しも、先日来、中華民国で民進党の頼清徳氏が第8代総統に就任したことが、日本のマスコミでも大きく報じられた。
この小説を読んで、戦後長きにわたり国民党独裁政権によって抑圧的に支配された台湾と、戒厳令が解除され民主化が進展した現在の台湾とが、ぼんやりとつながるような思いがした。
もうひとつ、この小説を読んで意義深かったことは、より抽象的であるが、「国家」とはなにか?という問いを、突きつめて考えてみるよい機会となったことだ。
*
「国家とはなにか」、それこそが『裏声』の中心的なテーマとして明確に据えられたものだ。
主人公の梨田は、小説に登場する様々な人物と、「国家」について論じあったり、雑談したりする。そこで提示される論点や視点はいずれもたいへん興味深い示唆を与えてくれるものだ。
丸谷は『笹まくら』でも、非常に印象深い国家論を展開していた。
『笹まくら』では、主人公と友人との学生時代の議論において、友人は「国家の目的は戦争である」と論じ、それに対して主人公は「国家はそもそも無目的なものだ」と応じていた。
そうした国家をめぐる考察が、『裏声』ではより幅広く敷衍され、より深く掘り下げられる。おそらく丸谷にとって、「国家とはなにか」という問いは、生涯をかけた大きなテーマであったのだろう。
『裏声』の全編をつうじて、あちらこちらで「国家」が論じられるのだが、なかでも丸谷の「国家論」と思われる議論が主人公の口を借りて、集約的に語られる箇所がある。
洪が経営するスーパーマーケットの店長の林と梨田が喫茶店で雑談をする場面である。
話の成り行きで、林が「いつたい国家といふのは何のためにあるものなんでせう?」と問うと、梨田は少し考えてから、おずおずと「何のためでもないんぢやないかな」と答える。
それに続く部分を、長くなるが以下に引用する。
現在の国際情勢を思い浮かべながら読むと、非常に味わい深い文章であると言えないだろうか?
「国家は無目的に存在する」という梨田の議論は、『笹まくら』の主人公(徴兵忌避者)の若き日の直観を発展させたものである。
興味深いのは、それが「自然現象みたいなもの」であるとも位置づけられていることだ。
梨田が「地震と同じ」と言っていることからすれば、「自然現象」が意味するのは、人間の力では制御できない天変地異のようなものということだろう。
それにしても、国家が「自然現象」であるとはいかにも奇妙なたとえである。
ふつう誰もが国家というものは高度に「人為的な」ものであると考えるのではないだろうか。だって人間以外のどんな動植物が「国家」をつくるだろうか?
しかし、よくよく考えてみると、国家が自然現象であるというのは、天変地異以外の含意もありうるように思う。
人間が種族ごと、地域ごとに集団を形成して「国家」を組織するいう行動は、例えば、カッコウが「托卵」を行うように、自然から与えられた本能であって、もともと人間のDNAにプログラミングされている、という考え方だ。
もしそうであるとすれば、「国家」というものが人間に対して恩恵を施そうが、あるいは逆に危害を加えようが、いずれにせよ、人間は生物学的に国家から自由ではありえないことになる。
あくまでわたしの勝手な思いつきである。おそらく多くの人は、そんな考え方を非常識なたわごとと捉えることだろう。
「自分は(法律上や制度上はともあれ)個人の信念としては国家などというものにまったく隷属していない」多くの人がそんなふうに主張するかもしない。
しかし、そうした人々が、しばしば、スポーツのワールドカップやオリンピックで我を忘れて自国を応援し、自国選手の活躍に熱狂していることも、また現実だろう。
そうした現実こそが、人間と国家の関係は制度や法律の範囲内にとどまるものではないことを示唆しているのではないだろうか。
つまり、個々の人間のアイデンティティには「国家」が無意識のうちに組み込まれている。そして、そのこと自体は、何ら人為的な目的を持たない「自然現象=本能」である、ということだ。
*
実際に、「国家」というものが「個人」を侵食し、個人の「自我」が国家に吸収されてしまう事態が起こりうるということが、『裏声』の中で示唆されている。
小説の終盤で、「台湾民主共和国」の大統領である洪は、突然、独立運動を捨て去るように、台湾に渡って国民政府に投降する。台湾で、洪は英雄のように歓迎され、国内のマスコミで大きく取り上げられ、丁重にもてなされるが、実態は軟禁状態となる。
洪がなぜ信念を曲げたのか、真相は明らかにされない。反政府運動のために本国で収監された姪の釈放と引き換えであったとか、物質的に手厚い交換条件を約束されたとか、様々な憶測が取り沙汰されるのみである。
前述のスーパーマーケット店長の林は、洪の事件について、次のように梨田に語りかける。
(林は、若いときに間違って万引きしたシュティルナーの本を読んで以来、この個人主義的アナキズムの先駆けとされる哲学者を信奉している。)
国家という観念に気を取られて自我を喪失する。
現に、国際社会の非難や制裁も顧みず隣国への侵攻を続ける某国の政権幹部や、それを疑いもなく支持する国民たちは、「国家」というものにこだわるあまりに、人間ひとりひとりが本来持つべきである「自我」を見失っているのではないだろうか。
個人が国家に帰属しつつ国家から自由であるために、個人が「自我」の独立を守りながら国家と共存するために、個人と国家の関係はどうあるべきなのだろうか?
国境を超えてひとりひとりの人間の「自我」が尊重されるために、国家があるべき姿はどういうものだろうか?
上に引用した対話に続く場面で、林は「軍事的で封建的な警察国家」こそが国家の原型であり、本質であると主張する。それに対して梨田は、現代の西欧国家に「国家のモデル」を求めようとする。
梨田は林に言う。
きわめて不謹慎で不真面目とのお叱りを覚悟であえて言えば、政権与党の裏金問題で連日マスコミが大騒ぎし、ここぞとばかりの野党の執拗な追及に与党が右往左往しているこの国は、かなりましな方ではないかと思えてしまう。
いずれにせよ、国民ひとりひとりが国家に対して適度な距離をたもち、梨田が言うように、自国が少しずつでも民主主義を深めていくことを「願う」という姿勢が、無力なようであっても、最終的には国の形をより良いものへと改めていくのかもしれない。
*
小説は、付きあっていた女性に一方的に別れを告げられ、傷心を抱えた梨田が、女性を偲びながらひとりで自宅周辺を散策する場面で終わる。その梨田の思索にも国家論が忍び込んでくる。そして、梨田の国家論はふいに思いがけない形をとり始める。
国家が「文明の型」を入れる容器である、ということ。そして「文明の型」を保つことが国家に属する人間にとって最優先の価値である、ということ。
『裏声』の最後で導入された議論を、丸谷はそれ以上発展させていない。
しかし、この議論は説得力があるように思う。
もし、国家が文明の型を入れる容器であるとすれば……、歴史上長い時間をかけて形づくられ、受け継がれてきたその独自の「器」を守ることは、各々に固有の文明を継承する国民ひとりひとりにとって、まさにDNAに組み込まれた使命であり、その使命を果たすことにおのれのアイデンティティを見いだすことは決して不自然なことではない、と思われるからだ。
そのような人間の「自我」のあり方は「本能的な郷愁」に由来するものである、とも言えるだろうか。
ふと思い当たった。
ロシアがウクライナの領土にこだわるのは、ウクライナという国家を侵犯しようとしているのではなくて、9世紀のキエフ大公国以来、帝政ロシア期、ソビエト連邦期を通じて一貫して形づくられ、受け継がれてきた「ロシア」あるいは「ルーシ」という偉大な「地域文明の型」を何としても回復し、保ち続け、未来へ遺そうと躍起になっているのではないだろうか?
もちろん、それは「ロシア連邦」という「国家」の自我が思い描くストーリーであるにすぎない。「ウクライナ」という自我にとっては別のストーリーがあるのだろう。
いずれにしろ、「個人」の自我は、国民が共有する「文明の型」という価値によって強力に「国家」の自我にひき寄せられてしまうのだ。
*
そんな風に、どうやらわたしはこの小説を、「小説」としてよりもむしろ非常にユニークな国家論の「教科書」として読んでしまったようだ。
きっと作者は不満に思うだろうけれど。
※タイトル画像はホシノエミコさんから拝借しました。ありがとうございました。
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