ドストエフスキーの絵画論―『作家の日記』より①―
ドストエフスキーの『作家の日記』(1873-1881)を細々と読み進めている。
これは厳密には「日記」ではなく、作家が晩年に綴ったエッセイ、時事評論、回想、掌編小説等の種々雑多な文章であって、『作家の日記』というタイトルの下で断続的に雑誌に掲載されたものだ。
岩波文庫(1959年刊行、1991年復刊)で全6巻、全体として、最も大部な長編小説である『カラマーゾフの兄弟』を超える分量があり、内容も必ずしも読みやすいものではないが、小林秀雄は「ドストエフスキイという人間を知る上には、恐らく最適の、少なくとも必須の作品」と評している。
どれだけ時間がかかるかわからないが、じっくりと、時どき立ち止まりながら、最後まで読もうと思う。
ドストエフスキーが見たロシア国民の特異性
岩波文庫版第1巻に収録された「展覧会に関して」(1873)という評論は、ドストエフスキーの絵画論として、非常にユニークなものだ。
この文章では、冒頭で、文学作品を例に引いて、ヨーロッパにおけるロシア国民の困難な立場を論じている。
すなわち、ロシア人はディケンズをロシア語訳で読んで、ほとんどイギリス人と同じように理解するのに対して、ヨーロッパ人はプーシキンもゴーゴリも全く理解できないに違いない、そうドストエフスキーは断言し、次のように述べる。
かような他の国民性に対する理解力は、ヨーロッパ人に比較して、ロシヤ人独特の天稟(てんぴん)であろうか? まったく独特の天稟かもしれない。はたしてかかる天稟があるとすれば(実際、どのヨーロッパ人よりもすぐれて他国語をあやつる天稟と同様に)、この天稟はきわめて意味深長なもので、未来において多くのものを約束し、ロシヤ人に多くの使命を予定するものである。…(中略)…なにより正確なのは(と多くの人は言うだろう)、ヨーロッパ人はロシヤおよびロシヤの生活を、あまりよく知らないということである。なぜなら、今日までそんなものをあまり詳しく知る必要がなかったからである。……(米川正夫訳。以下同じ)
ドストエフスキーは、さらに、ヨーロッパ人がロシア人に対して抱く「ある強烈な、いまわしい直覚」に基づく「一般的な、不断の悪意」にまで言及する。
まるで、何かけがらわしいもののように、われわれを忌みきらう彼らの態度、それから部分的には、われわれに対して彼らのいだいている迷信的な恐怖、そして「ロシヤ人はぜんぜんヨーロッパ人ではないのだ」という古くから知られている永久不変の彼らの宣告……われわれはむろんそれに侮辱を感じて、自分たちはヨーロッパ人だということを証明しようと、一生懸命に力み返っている……
このような文章から、ドストエフスキーが当時のヨーロッパにおけるロシア国民の特異性をどのように自覚していたかが窺われる。
それは、他のヨーロッパ諸国の国民性に対するロシア人の優れた理解力を誇る自負心と、それとは裏腹に先進的なヨーロッパ諸国からロシアが理解されず、疎んじられているとする孤立感とがないまぜになった、アンビバレントな「選民意識」のようなものであったようだ。
ドストエフスキーが見た「ヴォルガの舟曳き」
この評論の中で、ドストエフスキーは、絵画の領域に話を進め、いくつかのロシア人画家の作品に言及しつつ、彼らの風景画や、とくに風俗画の味わいは、ヨーロッパ人には到底理解できないだろうと論じている。
私が面白いと思ったのは、日本人にとってもなじみの深いイリヤ・レーピン(1844-1930)の「ヴォルガの舟曳き」(1873)を取り上げて、絶賛している部分である。
以下に引用してみよう。
私はレーピン氏の『ヴォルガの舟ひき』のことを新聞で読むやいなや、たちまちぎょっとしたものである。題材そのものさえも恐ろしい。ロシヤではどういうものか、舟ひきたちはなによりも一番に、「民衆に対する上流階級の贖(あがな)いきれない義務」という、例の社会思想を表わしうるものと考えられている。私は彼らがみんな制服を着て、額に一定のレッテルをはっている姿に出くわすものと、内々覚悟を決めていた。ところが、どうだろう? 喜ばしいことには、私の心配は杞憂にすぎないことがわかった。舟ひきたちは本当の舟ひきで、ただそれだけのものであった。誰一人として画の中から、「おれがどれだけ不幸で、お前がどれだけ民衆に対する負債を重ねているか、まあ、見てくれ!」などと見物に向って叫んではいない。ただそれだけでも、画家の偉大な功績とすることができよう。愛すべき親しみ深い彼らの姿、先頭の二人はほとんど笑顔さえ見せている。少なくとも、決して泣いてはいない。そして、自分の社会上の位置などということは、断じて考えていない。兵隊あがりの男はずるをして人目をごまかし、パイプに煙草をつめようとしている。一人の小僧っ子はまじめぶって、声高く叫びを立て、口論さえもしている。――驚嘆すべき姿、画面中で最もすぐれた出来ばえで、その意図においては、一人離れてとぼとぼと足を運び、顔さえ見えないほどうなだれた一番うしろの舟ひきの百姓に匹敵するくらいである。民衆に対する上流階級の政治・経済的、社会的負債などという思想が、いつにもあれ、この開闢(かいびゃく)以来の悲しみに打ちひしがれた百姓の、うなだれた貧しい頭に潜入することがあり得ようとは、想像だもできない話である……そして、――そして、愛すべき批評家よ、ほかならぬこの百姓のつつましい無邪気な気持こそ、君らの考えているよりも比較にならぬほど力強く、諸君の欲する傾向的な自由主義的な目的を達成させるのであるが、それを果たして知っておられるか? 実際、見物の中には、胸をかきむしられるような思いをいだき、この百姓か、それとも男の子か、あるいはずるい悪党の兵隊あがりに対して愛を覚えながら(しかも、ひととおりならぬ愛なのである!)展覧会を去る人もあろう! まったく、この頼りない人々を愛さずにはいられないではないか。彼らを愛さずに立ち去ることはできないではないか。自分は民衆に負債がある、実際、負債があると考えざるを得ないではないか……
長い引用となったが、ドストエフスキーの感想はさらに続いている。
彼は、新聞でこの新作絵画についての記事(どのような記事か分からないが)を読み、展覧会に足を運んだのであろう。
これらの文章は、以下の二点で興味深く感じられた。
一つは、当時のロシアの知識階級が、この絵を、純粋に芸術作品として鑑賞するに飽き足らず、「民衆に対する自らの負債や義務といった観念を呼び覚ますもの」と受け止めたらしいということだ。当時のロシアの知識人たちは、文学のみならず絵画からも、社会的なメッセージや思想性を読みとろうとしたということなのだろう。
もう一つは、ここには、ドストエフスキーの民衆への愛が強く表現されていることである。
ドストエフスキーは、「彼らを愛さずに(この絵の前から)立ち去ることはできないではないか」と書いている。
しかし、この絵を見たロシアの知識人の誰もが、ここに描かれているぼろをまとって過酷な労働を強いられる人夫たちに、(強い痛みや憐れみを感じこそすれ)「ひととおりならぬ愛」を感じたとまでは想像しがたい。
ここに見られるドストエフスキーに特有の民衆への愛、すなわち、小林秀雄が「民衆に対する殆ど神秘的な信仰」と呼び、そこに「異常さ」まで見出した民衆賛美は、間違いなく、彼の文学作品を理解するための重要な鍵となるものだろう。