ドストエフスキーの民衆論―『作家の日記』より③―
岩波文庫版『作家の日記』第2巻以降は、ドストエフスキーが1876年に創刊した個人雑誌『作家の日記』に掲載された文章を収録している。
筆者は『作家の日記より』①で、ドストエフスキーの尋常ならぬ「民衆への愛」について言及した。同②では、ドストエフスキーが自らの思想的転向をもたらしたものが「民衆との結合」であったことを告白した文章をとりあげた。いずれも「民衆」が重要なキーワードであった。
その後、『作家の日記』第2巻を読み進めていくと、まさに「民衆に対する愛について 民衆との提携は必要である」と題する文章に行き当たった(岩波文庫版『作家の日記』(二)、一八七六年二月第一章)。
③では、この文章について、立ち止まって考えたい。
このさほど長くない(7ページ余りの)文章の最初の部分で、ドストエフスキーは、ロシアの民衆を論じるにあたっては、民衆の中から「美を拾い出す目」がなければならないと述べる。そして、その際には、民衆の現在の姿、すなわち「彼らの現にしばしば行いつつある醜行」に基準を置くのではなく、彼らが「かくありたいと望んでいるところのもの」、彼らが「常に憧憬している偉大にして神聖なる事物」に準拠しなければならないと主張する。
さらに、ロシア文学にも触れて、プーシキンを始めとして「ロシア文学の中における真に美しいものは、すべて民衆の中から取られている」とも述べている。
この「民衆」(ナロード)とはいかなる人々を指すのかといえば、当時の社会階層において圧倒的多数を占めていた「農民」(クレスチヤーニエ)とほぼ同義であると考えてよいだろう。
ある統計によれば、19世紀末のロシアの「主要な階級あるいは階級グループ」の人口構成比は、農民が81.5パーセントであり、一方、貴族階級は1パーセント強に過ぎなかった。ほかに、「都市生活者」(下級官吏、商人、職人、工場労働者等が含まれるようだ)9パーセント、軍人階級6.5パーセント、僧侶1パーセント弱とされている(R. ヒングリー、川端香男里訳『19世紀ロシアの作家と社会』中公文庫、1984)。
したがって、当時のロシア帝国の臣民の大部分が農民階級に属し、農村に暮らしていたことになる。
そのような民衆について、ドストエフスキーは次のように問題を提起する。
民衆に関する問題、民衆の見方に関する問題、民衆の解釈に関する問題は、目下ロシヤにとってなによりもっとも重大な問題で、この中にわが国の未来ぜんたいが含まれている。それゆえ、現代のロシヤにとって、もっとも実際的な問題だといってもいいくらいである! とはいうものの、民衆はわれわれ一同にとって、まだ依然としてひとつの理論にすぎず、一個の謎であることに変わりはない。われわれ民衆の愛慕者と称するやからは、すべて彼らを理論として眺めているのみである。そして、まだわれわれのうち誰一人として、現在あるがままのものとして彼らを愛しているものはないらしい。われわれはすべて、おのおの自分の心に描いている民衆を愛しているにすぎないらしい。……(米川正夫訳。以下同じ)
『作家の日記』の文体は、しばしば持って回ったような、くどくどとした分かりにくい印象を読者に与え、しかも重要なことが明確に述べられないことが多いように感じられる。
例えば、上に引用した文章で、自明のように使われている「われわれ」が誰を指すのか、本文中には何ら説明がない。ここでは、「われわれ」とは、当時のロシアのジャーナリズムの読者層である知識人たち、より直接的には、農民にとっての領主であり地主階級である、人口1パーセント強の貴族階級を指すものと想像するのが自然だろう。
おそらく、ドストエフスキーは、当時の地主貴族の多くが、農民の中に、自分たちの主義主張や社会思想にとって都合の良い農民像を見ようとし、その虚像と現実とを取り違えがちであったと述べているのであろう。
(おりしも、この文章が書かれた1870年代のロシアは、農村に入り込み、農民を啓蒙することによって、農村共同体を基盤とした社会主義的変革が可能であると信じるナロードニキ(人民主義者)の運動が、貴族の子弟たちによって展開されていた時期に重なる。この運動は、結局、農民たちの広汎な支持を得られず挫折することとなる。)
そのような時代認識に立った上で、ドストエフスキーは自身の立場を次のようにきっぱりと表明する。
……私はこんなふうに考えている。――われらは自分自身を民衆の理想として誇り、民衆がぜひとも自分たちのようにならねばならぬと要求しうるほど、そんなに立派な美しい人間であろうとは信じられぬ。どうかこのばかばかしい問題の立て方に、びっくりしないでもらいたい。しかし、ロシヤではこの問題は、今までこういうふうにしか考えられなかったのである。「われわれと民衆とどちらがすぐれているのだろう? いったい民衆がわれわれの範に従うべきものか、それとも、こちらが民衆の足跡を踏むべきものだろうか?」今日、誰にもせよ、ほんのしずくほどでも頭に思想を有し、胸に民衆に関する憂慮の念をいだいているものは、みな一様にこう言っているではないか。そこで、私は心から次のように答える、――われわれこそ民衆の前にひざますいて、思想も形状も、いっさいのものを彼らから期待しなければならぬ、民衆の前に跪拝しなければならぬ。たとえその真理が、いくぶん『殉教者伝』からでているというような恐ろしい場合でも、それをば本当の真理と認めなければならぬ。一言にしてつくせば、われわれは二百年もわが家に足踏みしないでいたが、それでもやはり、生粋のロシヤ人として帰って来た迷える子らのように、彼らの前に頭をたれねばならぬ。しかも、それがわれわれの偉大な功業なのである。
ドストエフスキーは、ロシアの国民性、その正統性を体現するものは、なんといってもロシア人の8割以上を占める農民の側に存在するのであって、かたや1パーセント強に過ぎない「われわれ」、二百年もの間ロシアの大地から切り離されてきた貴族階級は、今こそ、農民たちのもとに復帰し、彼らとともにロシアの一体性を回復しなければならない、と主張しているかのようである。
二百年と言えば、ほぼ、モスクワから遷都した新首都ペテルブルクを「西欧への窓」として欧化政策を強力に推進したピョートル大帝(在位1682-1725)の治世以来ということになるだろうか。
このような表明にも、ドストエフスキーの民衆愛、その神秘的とも言える民衆信仰が見てとれるように思うのだが、さて、問題は、上の引用に直接続く以下の文章である。
けれども、この民衆に対する跪拝は、一つの条件つきでなければならず、しかも、それは sine qua non(必須)なのである。ほかではない、民衆の方でもわれわれが持って来たものの多くを、受け入れなければならぬということである。実際、われわれといえども、ぜんぜん彼らの前で、無に帰してしまうわけにはゆかぬ。どんな真理の前であろうとも、それはとうてい不可能なことである。われわれの有するものも、われわれとともに残らなければならぬ。われわれは、全世界のなにものに代えても、おのれの有するものを売り渡そうとは思わない。どんなにせっぱつまった場合でも、民衆との結合を代償にしようといっても、そんなことはしょせん不可能である。もしそれができなかったら、むしろ両方が別れ別れに死滅した方がましである。しかし、そのようなことは決してあるべきはずはない。そして、わたしは固く信じている、――われわれが持って来たこの「あるもの」は、本当に儼呼(げんこ)として存在している。決して蜃気楼(しんきろう)やなにかではない、ちゃんと姿も、形も、重みも備えた立派な存在物である。……(角括弧を付した「あるもの」は本文では傍点で強調されている。なお「儼呼(げんこ)」とは「おごそかなさま」を意味する。)
この姿も、形も、重みも備えた「あるもの」とは何を意味するのだろうか?
ここでも、ドストエフスキーは、大事なことをあえて明言せず、その正体を明らかにしない。まるで「分かる者だけが分かればよい」と謎をかけるかのように。
ロシアの民衆との一体性を回復するにあたって貴族階級の側からぜひとも持ち込まれねばならないもの、民衆の前で貴族階級が自分たちの持ち物として自負しうるもの、そのようにドストエフスキーが考えていたものとは、果たして何であったのか?
『作家の日記』を読み進めることの意義のひとつは、その手掛かりをさぐることであるのかもしれない。
※画像は、ロシアの画家グリゴーリー・ミャソエードフの「収穫のとき」(1887、部分)である。