ドストエフスキーの二元論―『作家の日記』より④―
ロシアの民衆との一体性を回復するにあたって貴族階級の側からぜひとも持ち込まれねばならないもの、民衆の前で貴族階級が自分たちの持ち物として自負しうるもの、そのようにドストエフスキーが考えていたものとは、果たして何であったのか?
これは、前回の投稿「ドストエフスキーの民衆論―『作家の日記』より③―」の末尾に記した筆者の問題提起であった。
前回の投稿は、ドストエフスキーが『作家の日記』一八七六年二月号で展開した独自の「民衆論」をとりあげたものだが、ドストエフスキーは、早くも同誌四月号で、再びこの問題に立ち帰って論じている(岩波文庫版『作家の日記』(二)、一八七六年四月第一章)。
今回は、この文章について考えたい。
上流社会至上主義について
発端は、アフセエンコ氏なる作家・批評家が、雑誌『ロシア報知』三月号においてドストエフスキーの民衆論を批判的に論じたことであったようだ。
ドストエフスキーによれば、アフセエンコ氏の論旨は以下のようなものである。
彼の論文の中で、私に関していることはことごとく、われわれ文明人は民衆の前に拝跪するにおよばない、――なぜならば、「民衆の理想は主として植物的停滞生活の理想であるから、」かえって、民衆はわれわれ文明人の教化を受け、われわれの思想やわれわれの形態を体得しなければならない、というテーマをとりあつかっているのである。要するに、アフセエンコ氏は二月の『日記』に書いた、私の民衆に関する言葉が、気に入らないのである。思うに、そこにはひとつあいまいな点があって、それは私自身がわるかったのである。……(米川正夫訳。以下同じ)
この『作家の日記』四月号の文章は、このアフセエンコ氏の論文への反論として始められるのであるが、ドストエフスキー自身が、『日記』二月号の論旨に不十分な点があったことを認めてもいる。
前回の投稿で指摘したように、ドストエフスキーの『日記』は、文体自体が持って回った、くどくどとしたものである上に、最も重要なことがはっきり述べられないためにしばしば分かりにくいものであり、その点は、ドストエフスキーもある程度自覚していたのかもしれない。
それでは、ドストエフスキーの二月号の「民衆論」のどのような点が「あいまい」であったのか、そこが重要な問題なのだが、ドストエフスキーはその点に触れる前に、アフセエンコ氏を徹底的にこきおろす。
要するに、ドストエフスキーによれば、アフセエンコ氏の本質は「上流社会崇拝に溺れきった人」であり、その結果、無意識的であれ民衆を嫌悪し、侮蔑しているというものだ。
それにしても、ここで詳しくは引用しないが、ドストエフスキーの批判は辛らつを極めていて、よくも同時代の同業者に対して、ここまで手ひどい攻撃ができるものだと呆れるほどである。もっとも、ドストエフスキーは、このような上流社会至上主義は「文壇にも実社会にも、非常に多いことがだんだんとわかってきた」と述べていて、必ずしもアフセエンコ氏個人ではなく、そこに典型的に見られる思想や信条に対して強烈に異を唱えたものと考えられる。
三つの「問い」
ドストエフスキーの「あいまいさ」に話を戻したい。
ドストエフスキーは『日記』二月号において、「知識階級は民衆の前に跪拝して、民衆の真理を自分たちの真理と認めなければならない。ただし民衆の側も知識階級がもたらす「あるもの」を受け取らねばならない」という趣旨の議論を展開した。
この論旨に関して、ドストエフスキーは「私も自分の落ち度は改めなければならない」として、次のように述べる。
……今にしてみると、人々にはあいまいに思われたのである。第一に、民衆の持っている拝跪に価する理想とはどんなものか、という質問が起った。第二には、民衆がsine qua non(否応なしに)受け取らなければならないわれわれの貴重な贈り物とは、何を意味するか、という問いである。最後に、われわれはヨーロッパ人であり、また、文明人であるが、民衆はロシア人であり、受動的であるのだから、単にその一事をもってしても、むしろ民衆がわれわれの前にひざまずくほうが早道ではないか? という疑いも生じた。……(太字で強調した部分は本文では傍点が付されている。以下同じ)
これらの三つの「問い」のうち、重要であるのは一つ目と二つ目であろう。最後の問いに対しては、ドストエフスキーが No ! と答えることは、もはや明白だからである。
そして、二つ目の問いが、まさに筆者が提起した疑問であった。
これらの問いに対して、ドストエフスキー自身がどのように答えたか? というと、結局のところ、よく分からないのだ。
またしても、真に重要な「答え」は、ドストエフスキーのくどくどとした饒舌の中に紛れてしまっている。
民衆はなぜ拝跪に価するか?
第一の「問い」、すなわち「民衆の持っている拝跪に価する理想とはどんなものか」という問いについては、ドストエフスキーは、自分が9歳の少年であった時の次のような体験を例証として持ち出す。
ある時、父母や兄弟姉妹が全員そろったドストエフスキー家の団らんの食卓に、田舎の領地の管理人がいきなり飛び込んできて、「お邸(やしき)が焼けました!」と報告する。聞けば、領地の火事で、百姓の住居も、穀物倉庫も、家畜小屋もすっかり焼失したとのことだ。家族はみな恐怖のあまりひざまずいて祈り、母は泣き始めた。
その時、一家が長く雇っていた乳母が、母に寄り添って「お金がご入用でしたら、わたしのをおつかいください。わたしが何にしましょう、いりやしませんから……」とささやいたというのだ。
この乳母は、それまで何年も給金を受けとろうとしなかったので、銀行に多額の預金がたまっていたらしい。結果として、乳母の預金には手を付けずに済んだということであるが、主人の一家の災難に対して乳母が示した私心のない犠牲的な振る舞いは、確かに美談であるに違いない。
ドストエフスキーは、「私一人だけでも、生れ落ちてから今日まで、わが民衆の中にかような場合を幾百も見てきた」と記している。
だが、ドストエフスキーが「民衆は拝跪に価する」と信じる根拠が、少なからずドストエフスキー自身の個人的な体験に基づくものであるとすれば、そのような根拠は主観的・心情的な信念の域を超えるものではあるまい。
「文明の堕落」、スラヴ主義者、農奴解放
ドストエフスキーは、また、アフセエンコ氏の民衆論を批判しながら、「文明の堕落」について論じる。
アフセエンコ氏は、(ドストエフスキーによれば)「民衆の理想は崇高で偉大なものであるが、その教育的意義が薄弱であるために、そこから救いを期待することが困難である」といった趣旨の主張を行うのだが(この主張自体がよく分からないのであるが)、ドストエフスキーは、これに対して次のように反論する。
……この小ざかしい言葉の羅列の中で、最も重要なことは、民衆の主義(と同時に正教も含む。なぜなら、実際において、民衆の主義はことごとく正教から出たものであるから)は、いかなる文化的力も教育的意義も持っていないから、我々はこれをうるために、ヨーロッパへ出かけなくてはならない、という結論である。<中略>ここで最も重大なのは、民衆的精神の教育的意義の薄弱なことに対する悪辣(あくらつ)な皮肉であり、民衆的精神はいかなる結果にも導かないが、文化はすべてをもたらすという結論である。私はどうかというに、われわれが自分のヨーロッパ文明を堕落からはじめたことを、すでにとくから指摘している。しかし、これについて、とくに注意すべきことは、教養は浅いと言いながらも、いろいろの習癖や、新しい偏見や、新しい服装といったような意味で、とにかく、いくらか曲がりなりにも文明化した人たちが、以前自分が住んでいた環境や、自国の民衆や、その信仰を、時として嫌悪を感ずるまでに侮蔑する、ということである。……
ここで、ドストエフスキーは、文明の受容につきまといがちな「堕落」について論じている。すなわち、ヨーロッパ文明に生半可に染まったロシア人が、民衆の精神や理想から遊離し、自分たちがより文化的に高等な存在であると思い込んで、民衆を侮蔑するようになる、そのメカニズムを強く糾弾しているのである。
一方で、ドストエフスキーによれば、ロシアの過去の歴史においては、ヨーロッパ文化の洗礼を受けながら、「ふたたび民衆と民衆の理想に戻ってきたもの」も多数存在した。そして、そのような人びとの中から「ヨーロッパ文明によって高い教化を身につけた、スラヴ主義者の群が分かれ出たのである」とも論じている。
さらに、ドストエフスキーは、1861年の農奴解放にも言及し、この事業は決してロシアがヨーロッパによって教化された結果ではないと主張する。
……なぜヨーロッパにおける解放は、富豪や男爵や地主の手で行わずに、反逆と暴動と、火と、剣と、血の河をもって行われたか? もし血を流さずに解放したところがあるとすれば、それはプロレタリヤの主義にもとづいて、完全に奴隷の形で解放されただけである。ところが、われわれはヨーロッパ人に解放することを学んだ!と叫んでいる。「われわれは文明化して、百姓を犬や無頼漢と見なすことをやめた」といったわけである。それならば、なぜフランス、いな、ヨーロッパのいたるところで、あらゆるプロレタリヤ、すなわち、何も持っていない労働者を、いまだに犬や無頼漢と見なしているのか?……
……いな、われわれが土地ぐるみ民衆を解放したのは、文化的なヨーロッパ人となったからではない。あたかも四十年前、その当時自分のヨーロッパ教育をのろって、民衆の精神に帰った地主のプーシキンのように、皇帝を戴くロシヤ人を自分の中に認めたからである。この民衆の精神の名において、ロシヤの民衆は土地ぐるみ解放されたのであって、ヨーロッパが教えたからではない。それどころか、われわれが初めて忽然として、民衆の正義の前にひざまずこうと決心したからである。……
しかし、文明に「堕落」がつきまとうことも、スラヴ主義者が「民衆の理想に忠実」であったことも、農奴解放という偉業(?)が世界史においてロシアに固有の事件であったことも、いずれも、「民衆の理想が拝跪に価する」ことの説明として、決して十分なものであるとは言い難い。
民衆への贈り物とは何か?
第二の「問い」、すなわち「われわれ」が民衆に与えることができる貴重な贈物とは何を意味するのか、という問いに対するヒントは、ドストエフスキーの問題提起自体の中に読みとることができる。
ドストエフスキーは『日記』四月号の文章の中で、この問いを、次のように繰り返している。
……まったく良心的であるために、私は馬車や従僕のみの意味でなく、最高の意味において、この貴重なわが欧州文化を受け入れる。すなわち、われわれは民衆に比較すれば、精神的にも、道徳的にも発達をとげて、真に人間らしくなり、人道的になってきたのであって、それがわれわれの民衆と異なるところであり、われわれの名誉となっているのである。こう、公平に言明しておいて、私はまっすぐに問題をみずから提出する。「われわれは民衆の文化を斥けて、自分たちの文化を賛美するほど、確かに間違いなくすぐれているか、また誤りない文化を受けているか? そして最後に、われわれは何をヨーロッパから民衆にもたらしたか?」
……ここに提出すべき問題は、科学や産業のことではなくて、ヨーロッパから帰ったわれわれ文化人が、どうして精神的にまた本質的に、民衆より上位に立つにいたったか、ヨーロッパ文明によって、どどんなに貴重な贈物を民衆にもたらしたか、ということである。……
どうやら、ドストエフスキーは、「われわれ」すなわち貴族階級あるいは知識階級が、ヨーロッパ文明を受容したことによって自分たちの持ち物としたもの、それによって民衆に対する優位性を獲得したもの、しかし未だに民衆に届けることができずにいるもの、そのような「あるもの」を、貴重な贈物として民衆と分かち合わねばならない、と言っているように思われる。
その「あるもの」とは、何を意味するのか?
四月号の文章の末尾で、ドストエフスキーは次のように述べる。
……またいよいよ最後に私が闡明(せんめい)したかったのは、<中略>私自身が二月の『日記』でいったように、「もしわれわれ教養あるロシヤの階級が、かくまで不安定であり、脆弱(ぜいじゃく)であるとすれば、われわれはそもそも何を民衆に与えることができるか、民衆がsine qua non(必ず納受すべき)貴重物としてひざまずいて受けるようにするには、はたして何を提出すべきであるか?」という、ぐらつきやすい問題を、私が自分で解釈していると同じように、闡明したいのである。わが国文化のこうした一面こそ、貴重な遺産なのであるが、これらの諸君はかえって今日まで、一顧の注意もはらわないでいた、私はそれを指摘し、闡明したいのである。……(闡明とは、「不明瞭であったことをはっきりさせること」を意味する。)
何ということだろう!
二月号で、「姿も、形も、重みも備えた立派な存在物」であるとしていた「あるもの」について、ドストエフスキーは、四月号でも、自身の解釈を持ちながら、結局その正体を明らかにしないのである。
あるいは、ドストエフスキー自身にとっても、それを「闡明」するのは必ずしも容易ではないということなのだろうか?
ドストエフスキーの二元論
残念ながら、二つの重要な「問い」への答えは、あいまいなまま残ったが、今回とりあげた文章から強く感じられたことがある。
それは、ドストエフスキーの世界観が、さまざまな二項対立によって成り立っている、ということである。
< 民衆 対 貴族階級あるいは知識階級 >
< ロシア(人) 対 ヨーロッパ(人) >
< ロシア的伝統 対 ヨーロッパ文明 >
< スラブ主義 対 西欧主義 >
< ロシア正教 対 無神論 > あるいは、
< ロシア正教 対 ローマ・カトリック >
これらの二項対立のいずれにおいても、ドストエフスキーにとっての優位性は前者に置かれている。
しかし、その優位性は決して自明なものではなく、おそらく、二項対立は常に緊張をはらみ、深刻な葛藤を経験している。
そして、そのような葛藤を突きつめて描いたものこそが、ドストエフスキーの文学であったのではないだろうか?
※画像は、グリゴーリー・ミャソエードフ「1861年2月19日の読書」(1873年)