映画『マリウポリの20日間』を観て
4月26日公開の『マリウポリの20日間』を観た。
マリウポリはウクライナ東部ドネツク州、ロシアとの国境近くの工業都市だ。
2022年2月24日にロシアが一方的にウクライナ侵攻を開始してから20日間、AP通信記者がマリウポリに入り、取材活動を行った。
映画は、ロシア軍のミサイルや戦闘機の爆撃を受け、戦車に包囲された地区で記者のカメラがとらえた映像を、1時間半にわたって編集したものである。
すべてが見るに耐えない悲惨な現実だ。
たとえば爆撃された産院から運び出される妊婦の姿。下半身に大怪我を負った臨月とも思われる女性は、担架の上でうつろな表情を浮かべていた。
その後の取材で、女性も胎児も亡くなったことが分かる。骨盤が粉々に砕けていたのだ。
物資も薬剤も細る中で懸命に医療行為を続ける病院に運びこまれたとき、女性は「殺して」と言ったそうだ。
ウクライナの一般市民に対する無差別な殺戮を伝える映像は、AP通信から各国のメディアを通じ同時進行で世界中に広まった。
しかし、民間人への攻撃についてコメントを求められたロシアのラブロフ外相は、平然として「映像はフェイクだ」と否定する。
映画に挿入されたそんな場面を見ながら、考えずにはいられなかった。
ラブロフは映像がフェイクだと本当に信じていたのだろうか?
信じていたのか、信じているふりをしたのか、実のところよく分からない。
確かなことは、プーチン始めロシアの政権幹部が、だれ一人としてこの「軍事作戦」の大義になんら疑いを持たず、自分たちの行為が「悪」であるとはみじんも思っていないのだろう、ということだ。
自らを「正義」と信じる「悪」は確信的な「悪」よりもむしろ恐ろしい。
では兵士たちはどうだろう?
ミサイルの発射ボタンを押した者、戦闘機から爆撃を行った者は、自分たちが人を殺していることを「正しく」認識しただろうか?
殺される者の顔や姿をありありと想像できただろうか?
大いなる正義のためには犠牲もやむを得ない、と痛ましい気持ちで考えただろうか?
ひょっとしたら標的に命中させてポイントを重ねるゲームのような感覚だったのではないだろうか?
もしそうだとすれば……、そしてそれが兵士の通常の感覚であるのだとすれば、それが意味するものはなんだろうか?
戦闘のさ中で「ふつうの」人間性を保つことがいかに困難なことか、を意味するのだろうか?
いやそもそも「ふつうの」人間性とはなんだ?
殺すか殺されるかという状況、みずから殺さなければ殺されてしまうという状況、たとえば刀や槍を持って対峙し合うような状況、そんな昔の戦争であれば、兵士は人を「殺す」ということの意味を直接、身体感覚として理解できたのかもしれない。
火器や砲弾を惜しみなく消費し、改良を重ねた戦車や戦闘機に乗り込み、ミサイルを乱発し、核兵器によって威嚇し、そして今やドローンを駆使する。
そんな現代の「戦争」という非日常の時間と空間のなかで、人はためらいなく、実感も持たずに人を殺す。
殺される者の苦痛や悲惨や絶望をじかに見ることなく、「想像」の枠外に追いやることで、平然と人を殺すことができる。
それこそが「ふつうの」人間性ではないのか?
もしそうだとすれば、人間性には「悪」が棲んでいるとしか言いようがない。
悲しいことだけれど。
マリウポリだけで約8千人、ウクライナ全体で1万人を超えるとされる民間人の犠牲に見合うような解決策が果たしてありうるだろうか?
いやそんなものありはしないのだ。失われたものは元には戻らない。
それはガザも同じことだ。
つらいことだけれど。
わたしはこの映画を観ることしかできない。
観て、現実の一端を知ることしかできない。
だからこそせめて観なければならない。
観ることで受け止めなければならない。そして考えなければならない。
1万人を超える犠牲者の命の「軽さ」について。
人間の本性に潜む「悪」について。
※タイトル画像は映画公式サイトより。