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#90 賢治研究におけるエマーソン、カーライル その2【宮沢賢治とエミリィ・ディキンスン その28】

(続き)

○ 賢治研究におけるエマーソン、カーライル その2

1 照井謹二郎「妹トシの落書」(啄木と賢治(5・6),1976)

賢治からエマーソンの本を譲り受けた照井謹二郎氏本人によって書かれたもので、1932年に病床の賢治を訪問し、トシのメモが挟まれた「エマーソン論文集 上巻」を譲り受けた時の状況が書かれています。


2 大沢正善「宮沢賢治と『エマーソン論文集』」(文芸研究(100), 1982)

賢治が難解な法華経の考え方を理解する前段階で、「エマーソン論文集 上巻」に触れ、その思想が法華経を理解する手助けとなった可能性があることについて触れられています。この指摘が、エマーソンと賢治の関係が考察されるきっかけとなりました。
賢治が、島地大等の通称「赤い本」と呼ばれる 「漢和対照 妙法蓮華経」を手にして感動したのは1914年で、エマーソンの哲学書を読んでいたのが目撃された1911年より後のことです。ここでは、エマーソンと法華経の思想が似ているということも指摘されています。

3 信時哲郎「宮沢賢治とエマーソン−詩人の誕生−」(比較文学(34),1992)

「エマーソン論文集 上巻」だけではなく、「詩人論」を含む「下巻」も賢治に影響を与えた可能性があることについて指摘されています。また、詩人で博物学者でもあったエマーソンの存在が、詩人で科学者となった賢治の進路にも影響を与えたのではないかと指摘しています。

4 水野達朗「『心象スケッチ』の成立とエマソン受容」(宮沢賢治研究Annual(7), 1997)

賢治特有の「心象スケッチ」の概念と、エマーソンの思想の関連について分析されています。

5 水野達朗「照井氏所蔵『エマーソン論文集 上巻』の「宮澤トシ肉筆メモ」(比較文学・文化論集(18), 2001)

賢治の妹トシが日本女子大時代にエマーソンから影響を受けて強い人間であろうと努力し、在学中に体調を崩し花巻に帰郷してから書かれた「自省録」においてもなお、エマーソンの思想からの影響が見られることを指摘しています。

6 水野達朗「賢治の『修養』圏−エマソン受容の周辺−」(宮沢賢治研究Annual(18), 2008)

賢治が生まれた明治後期から大正にかけて、「修養」ブームの中でエマーソンが注目された世相について触れ、賢治が、精神や人格を向上させるための「修養書」の一貫として、エマーソンを手にした可能性についても触れています。

7 大沢正善「宮沢賢治とカーライル『衣服哲学』」(岐阜聖徳学園大学国語国文学(32), 2013)

カーライルの「衣服哲学」が賢治の「ビジテリアン大祭」に与えた影響などについて触れています。

1〜7はいずれも、エマーソンが賢治やトシの思想や創作にとって重要な役割を担った可能性について考察されたものです。賢治とトシは互いに影響を与えあい、賢治が亡くなる直前まで、トシのエマーソン論文集を手元に置いていたことから、賢治やトシがエマーソンを理解する際も、互いに影響を与えあった可能性もあるのではないでしょうか。

また、6で取り上げられた「修養主義」を主導していたのは、1906年から1913年まで旧制一高の校長だった新渡戸稲造だったと言われています。賢治が、ブームとなっていた修養について興味を持っていたとすれば、その主導者であり、身近な存在でもあった新渡戸の事を、強く意識していたのではないかとも思われます。

(続く)

2023(令和5)年10月29日(日)

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