#148 神仏みな兄弟?【宮沢賢治とシャーマンと山 その21】
(続く)
現代では不可思議に見える田中智学の理論が、当時の多くの人々にとって受け入れ可能だったということは、当時の日本には、神と仏が交差する信仰を受け入れる土壌があったと思われる。
恐らくその土壌こそが、仏教伝来以降1000年以上続いた神仏習合で、智学や賢治の時代は、神仏習合が解体されてから50年程度しか経っておらず、表面上は解体されても、まだまだ日本人の信仰に生き続けていたのではないだろうか。
明治維新の神仏分離後約150年、そして、その明治維新で築かれた国家神道が第二次世界大戦後に解体されてから約80年を経過しようとする現在を生きる私にとっては、江戸時代以前の神仏習合の姿を想像することは難しい。一般的な知識として理解してはいるが、その実態を驚くほど知らない。むしろ知識として知っているが故に、わかった気になって、その重要な意味を見過ごしている気すらする。
宮沢賢治作品と、神仏習合が関係あるのかないのかは、まだ解らない。しかし、賢治は神仏習合の余韻が残る時代、神仏分離の余波を受けながら信仰が揺れ動く時代に生きていたと思われる。そして、賢治の人生にとって、信仰は非常に重要な問題だったはずだ。
遠回りかもしれないが、神仏習合を理解する事によって、賢治作品への理解が前進するように思えた。
何より、賢治との関係を別にしても、神仏習合は本当に興味深いテーマでもある。神仏習合の視点で、日本人の信仰や暮らし、習慣などを見つめ直すと、気付くことも多い。
【写真は、奥日光二荒山神社にある男体山登拝口の鳥居】
(続く)
2024(令和6)年3月10日(日)