命のコスパ-2053年の尊厳死- 第4話
介護の果て
西川彰孝さん(仮名)は、父親の認知症が完治するまで、ずっと介護をしていたという。
クルーネックの白いシャツにグレーのセットアップという出で立ちがよく似合う、すらっとした印象の人だ。細めの黒縁眼鏡の位置を直す仕草が様になる。
「地獄ですね」
ビジネスマンのような様相の西川さんは、介護中はどんな生活だったか、という質問に、視線を落としながら簡潔に、鋭く吐き捨てた。見た目とのギャップに少しぎょっとする。
存命の肉親、しかも今でも同居している父親に対する言葉としては、かなり辛辣だ。驚くのも無理はないと思う。
時間はあるというので、ゆったりできるカフェで話を聞くことにしたのが幸いした。JR蒲田駅からすぐの場所にあるこの店は、このところよく伺う柴田さんの家から近いこともあって、すっかり常連になってしまった。コーヒー一杯が千円少々するのがなかなか痛いが、それを除けば適度に人の動きと静かさがあり、沈黙の痛みが少し和らぐ。西川さんもコーヒーで口を湿らせ、続く言葉を探した。
「同じことを何度も繰り返すんですよ。何度言っても治らない。トイレにいったら水を流せ、一人でベッドから出ようとするな、大声を出すな、……。単純なことでしょ。でも、それだけのことをわかってくれない。
そもそもろくに動けないんですよ、こんな状態でどうやって生きてるのかと思うくらい。介護食が飲み込めたのが救いですかね」
寝たきりの状態だったそうである。胃ろうまではしない、できなかったという。医療費が支払えないからだったそうだ。嚥下障害などを起こさなかったのが、信じられない幸運だったと医者に言われたそうだ。結局自分で食べ物を食べられるかが、重要な分岐点になるのだろう。フランスやスウェーデンなどでは、自発的に食事ができるかどうかが延命を続けるかどうかの判断基準になっているという。無理矢理に栄養を接種させる胃ろうは、虐待になるのだ。日本では違う。
「それでも、家の中でもずっと一人になれないのが辛かったです。ひっきりなしに呼び出されますから。水が飲みたい、背中が痒い。それだけの理由で夜中に叩き起こされて呼ばれるんですよ。本人はずっと寝ているから昼夜がないんです」
それが15年ですよ、と添えられた一言で、ぐっと息を呑み込んでしまった。
西川さんの父親は現在95歳。かなりの高齢だ。25年前、認知症を発症し自宅で介護が必要になった。
しばらくは、母親がその介護にあたっていた。実家を出て一人暮らしをしていた西川さんは、忙しさもあってほとんど帰らなかったそうだ。だがその10年後、母親が自殺。介護疲れだそうだ。そのため西川さんは50代の半ばで介護離職し、現在に至る。元々は中小企業の事務職で細々と暮らしていたそうだ。
ありふれた話ですよ、と西川さんは言った。淡々と。
そんなものがありふれた話、で片付くものなのだろうか。確かに介護自殺の数は右肩上がりではあるが……。
「地元には友人もいなくなってましたし、両親とは……社会人になってからはほとんど関わってきませんでした。おふくろが死んだときも、ああそうかっていうくらいで。東京には友人も彼女もいたし、実家に帰ってもそれこそなにもないんですよ」
栃木県の出身だという西川さんは、大学進学を機に上京し、就職も都内で決めた。周りもそんな人ばかりだったという。
「とにかく地元には仕事がなかった。いや……あった、んですかね。選ばなければ……。でかい工場はあったし、実家が農家だってやつもいましたよ。でもみんなやらなかった。大学で就職課いって、企業展いって、説明会いって。そういうところも東京の会社ばっかりでしたしね。待遇も結局東京と比べちゃうと、どうしても」
思い出し、思い出し、というように西川さんの目が泳ぐ。
不意打ちを食らった気分だった。
筆者も東京の外で暮らしたことはない。自然とデスクワークを選んだが、確かに北関東にいけば、工場勤務や農業も仕事としては存在するのだ。やりたいとかやりたくないとか以前に、そういう仕事をしようという発想がないし、目に入らなかった。
筆者自身、就職活動で苦労をしたような思い出はあまりない。新卒は、高校卒も大学卒も基本的に長く売り手市場が続いている。労働人口が減少し続けているのだから無理もない。
こぼすようにそう言うと、西川さんはふっと笑った。
「いいですね。あんな苦労は誰もしないほうが良いですよ。エントリーシート何枚送ったかわからないです。履歴書も、手書きで書かされたりね。写真だって証明写真使うんだから、けっこうお金もかかって。
いい時代になりましたね」
その笑顔に痛々しさを感じるのは、傲慢なのだろうか。本当に優しく笑うのだ。自分の苦労を、下の世代がしていない、ということを喜んでいるのだろうか。だがそんな都合のいい、人のいい話があるものだろうか。恨み節の一つも出てきてもおかしくない。
「さっきも言いましたけど、あんな苦労は誰もしなくていいですよ。本当に疲れる。嫌がらせみたいな質問されたりするんですよ。親の葬式に仕事休んでいくつもりか、とか、会社にどうやって貢献するのかとか、宗教じゃないんだから。そんなのを何十回もやらなくちゃいけなかった。病みますよ」
深い溜息をつく西川さん。思い出したくもない、と聞こえてきそうだ。
今そんな質問をする企業があれば、即通報されて指導が入るだろう。そもそも募集に人がこなくなるはずだ。ネットを介した口コミは、仕事を選ぶときには必ず見るからだ。どこを見ても人手不足な今では、ただの自殺行為である。
そういう時代だったのだろうか。そう思っていると、続きを話してくれた。
「それで入った後も、こき使われるだけこき使われる。給料も上がらなかったですしね……僕なんか、10歳下の後輩と同じ給料でしたよ。そりゃ同じ仕事してるならそれでもわかりますけど、そんなわけもなくて。なにしてるんだろうなって残業しながら思いましたよ」
やっぱり、理不尽さは感じているのだ。当然だろう。それなら、苦労した分くらいは、今からだって楽をしたらいいのではないか。
「そんなこと……いや、すみません」
口元を抑えて、西川さんが言葉を切った。
長い沈黙だった。ときおり、喉が鳴るような音がした。気づけば目も閉じている。
――嗚咽だ。
きっと何か、いけないことを聞いてしまったのだろう。怒らせてしまったと思い、頭が真っ白になりそうだった。下手なことを言ってこれ以上西川さんを傷つけたくない。しかし、まだ話は聞きたい。そんな堂々巡りで何も言えずにいるうちに、西川さんの方から口を開いてくれた。
「そうですね。そうできればよかった。やっぱり若い人は違いますね。話を聞いてもらおうと思ったのは、うん、こういうことなんだな」
独り言のようにつぶやいて、何度もうなずいた。何が「こういうこと」なのだろう。取り繕うように、すみません、と言うと、西川さんはひときわ穏やかに笑ってくれた。
「謝らないでください。ジェネレーションギャップっていうんでしょうね、申し訳ないけど、やっぱりわかってない、って言葉がでちゃいます。今から楽をすればいい、苦労したんだからって。悪気、ないでしょう」
もちろん無い。振り子のように首を縦に振って、もちろんです、と答える。
「……きつい言い方になってしまったらすみません。
あのね、今から楽なんかできないですよ。うちの親父なんか、認知症でずっと動けないんですよ。介護は終わりがない。多少デイケアが来てくれたときだけ、少し眠れる。それでも怒鳴り声が聞こえたら飛び起きます。そんな生活で何がどうなるんですか。
今から何をするんです? 認知症の治療が始まって、僕も自由な時間が増えましたよ、前よりは大人しくなりましたからね。でも相変わらず身動きひとつ自由にならないんですよ、親父は。多少手がかからなくなったって言ったって、夜中に汚物入りのおむつを投げつけてくる人間の世話をしなくちゃいけないままで、何が楽になるんですか。
15年、介護しかしてないんですよ。親父は介護しかされてない。仕事もろくにないし、家族も親父しかいない。その親父だって、認知症はましになっても体が若返るわけじゃない。車いすで寝返りも満足にできない体で、生きてるだけで。
二人揃ってそんなで、それでなにをするんですか」
一息といっていいくらいに、雪崩を打ったように西川さんは吐き出した。
こちらはといえば、一言も言葉が出なかった。本当に、何一つ。うめき声が出たのがせいぜいだ。
それでなにをするんですか。
そんな単純な、小学生のような、ある種バカにしているような問いかけに、答えるすべがない。
「家族が生きている、よかったよかったで終わるわけじゃないんですよ――」
西川さんの笑みは、穏やかなのではない。疲れ切っていたのだ。そのときに、ようやく気がついた。
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