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正しい理論は正しくない感情に邪魔されるのか

哲学を勉強する際様々な本を読んで知識を増やしたりしているのですが、その際法則や論理なるものを目にする機会があります。
哲学であれば論理哲学論考に掲載されている数式、功利主義の幸福指数、資本主義、共産主義など、ほかにもいろいろありますが、ざっくりこれらが挙げられそうです。

その時度々思うこととして、正しい理論は正しくない感情によって破壊されてしまうのではないか、なんてことを考えることがあります。
ちょっとこれについて勝手に考えていきたいと思います。

共産主義を例にしてみましょう。
これは資本主義の代わり(次の主流)になるといわれた主義で、現在ではよろしくないものとしての烙印が押されていますが、同時に最初に共産主義の主張を聞くとなんてすばらしいんだと思うものでもあります。

というのも、共産主義は平等を重んじるため、金持ちがお金を抱えて貧乏人をより貧乏にするのを否定し、資産を独り占めするなども同じく否定するなど、ある意味理想郷的考え方を持っているからです。
私も共産主義を初めて聞いたなら、何故世界は共産主義にならないんだと思うかもしれません。

そのため、過去一部の国では共産主義を採用した国家運営をしていましたが、結果は皆さんご存じ派手に失敗しました。
何故失敗したのかを考えた際、共産主義に関わらずほとんどの原因は論理破綻ではなく、人間の感情、醜さなどから失敗することがほとんどのような気がします。

・平等とは言うけど、自分さえよければいいと思い仕事をせず国が潤わない。
・国のトップの権利が集中するため、結果的に上層部の財布が潤い、国にたてつく国民を粛正することができるため、結局平等な国にはならない
など

共産主義は論理よりも人間の感情によっておかしくなり、最終的に悲惨な最期を迎えました(もちろんそれだけが原因とは言いませんが)

ほかにも程度の差はありますが経済、道徳、スポーツなど、ありとあらゆるものが人間の感情によっておかしな方向に行きがちで、厳格なルールなどが必要になります。
しかもそのルールすらも突き破ろうとする者がいて、結局いたちごっこになってしまいます。

では人間は醜いのでしょうか?
私なりの答えとして、確かに醜い部分もあるかもしれませんが、同時に人間としての反抗としてこういった状況が発生してしまうのではないかと考えます。

というのも、先ほどから続いて共産主義の話になりますが、平等というのは悪く言えば人間が全員同じになるため、機械へ近づく行為、という一面があります。

我々は一人一人が同じではありません。人には必ず個性というものがあり、何かしら違うところが存在します。
ですが平等とは一人一人が同じことを強制する行為です。
言い換えると、平等とは機械になることです。

となった場合、我々は醜い感情を持っているのではなく、同一化による対抗手段として論理をおかしくさせてしまうという、人間を守るためのテロ行為を論理に対して行っていると考えてもいいのかもしれません。

人と同じことをしたくないから、人と同じことを強要させる論理に反抗する。
そして、自由である以上のルールは我々を蝕む、なんてことが言えるような気がします。
平等は自由を奪う行き過ぎたルールでもあります。
平等は人間性を奪う行為です。
だからといって平等が悪いわけではないですけどね。

皆さんはどのように考えていますでしょうか?


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