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山から下界へ下りるときに思うこと

6ヶ月ぶりに山に行った。
夏の暑さと秋の忙しなさ(仕事柄秋はイベント続きなのだ)と精神的なアンバランスの波を超えてようやく出掛けられる態勢になったらもう師走も半ばになっていた。ほんとに久しぶりなので、ごく近場の小さな山、北鎌倉の六国見山へ行った。さすがにもの足りなく、住宅地を挟んだ隣の山、勝上山や明月谷を歩いてから帰途についた。

山歩きを始めたのは今年の2月頃だから初心者である。15くらいの山に登ったがすべて200メートル前後の低山専門だ。初心者なのにひとりで登るので道に迷ったり滑落する危険を避けるためと、もうひとつは小5の娘が学校に行ってから帰ってくるまでの間にちゃっと登ってちゃっと帰って来たいためである。

そうなると地理的な場所もごくごく限定される。横浜を起点に半日で帰って来られる距離だから鎌倉、葉山、横須賀、三浦、あるいは秦野あたりでもなるべく駅から近いところを探しては登っている。そんなふうに制約の多いなかでわざわざ行かなくてもいいんじゃないかとも思うのだが、一度試しに行ったらやめられなくなってしまったのだから仕方ない。

普段暮らしている場所だって横浜の片田舎のちょっとした尾根にある地区で、標高80メートル程ある。駅から徒歩20分はかかる我が家のあたりは駅前の繁華街に比べれば緑豊かな鳥たちと台湾リスの天国で、ここ数年ずいぶん減ったとはいえカブトムシもクワガタもいるし子ども達はバッタやトカゲを捕まえて飼うこともできる。気温だって駅前より1℃は低い。ほんのたまにだけどハイカーらしき人が通ったりもする。自然を楽しむには充分だと言われるかもしれない。自分でも頭ではそのように考えて、わざわざ時間をやり繰りして山に行こうとしなくても、と宥めすかしてはみるのだ。でもやっぱり山がいい。むくむくと行きたくなってしまうのだ。

200メートル前後の小さな山でも、切り崩されずに残っている山は独自の世界を形成していて下界とは違う掟で存在している。そこへ分け入らせてもらうと自分自身の身体も心も変わる。下界にいるときとは別の自分を生きることになる。その感覚がどうしても必要になってしまうのだ。

六国見山の手前に明月院があったので、今朝、登る前に寄った。山裾にあるこういうお寺は山そのものとは違い人の手で整えられた空間だが、木や草花や虫や動物など他の生物への敬いや慈しみが感じられるので好きだ。下界の構造物は人間以外の生物を薙ぎ倒し薙ぎ倒し造られていて優しさの欠片もない。いつもうまく調和できない。息が詰まる。

山に来る人はみんな、息をしに来てるんだと思う。下界も容易く息のできる空間に戻していくことはできないのかな。他の人や他の生物を敬い合う空間に作り変えていけないのかな。


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