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「どうすればよかったか?」 その問いはどこへ向かうのか
戦前の呉秀三という人が、『精神病者の私宅監置の実況』という本を書いた。精神病者は自宅の座敷牢に監禁/軟禁されていた時代のこと。
先日、「どうすればよかったか?」というドキュメンタリー映画が公開されたので観てきた。端的にいうと、現代日本において、新規発症統合失調症の20代女性が25年両親によって自宅に監置されており、映画監督である弟が映像記録していたものをドキュメンタリーにしたもの。
統合失調症の当事者である姉は、25年の未治療期間を経て、3ヶ月の入院・薬物加療後に疎通可能な「こちらがわ」の世界に戻ってくる。そして50代でStage IVの肺がんが見つかり、数年で亡くなる。それが2020年くらいだったはずだから、つい最近の話だ。
彼らの両親は、医師であり研究者だった。細胞生物学と薬理学だったかな。映像記録の断片的な情報だけでも、彼らの知的水準の高さ、そして裏返って知識人としての圧倒的なプライドが見て取れる。
姉は大学生くらいまで成績優秀なよい子だったらしい。やや古めの精神科の本を読みかじっただけの僕からすると、典型的な統合失調症発症の病歴といった感じだ。
疎通がとれなくなり「あちらがわ」に行ってしまった姉を、両親は25年間自宅に監置した。そして「こちらがわ」にもどり、しばらくして亡くなった。
この映画の感想は、すこし考えてからにしようと思い、4日ほど経過した。
だれでも「どうすればよかったか?」を考えるだろう。どこかで歯車を組み替えたら、姉は25年を失わずに済んだだろうか。両親の恥の意識だろうか。当時の精神科医療がcrudeであったことか。全部stigmaが悪いのか。両親の自由意志は?医師としての矜持なんて医師ゆえのstigmaに容易に負けるのか。そして弟は完全に無力だったのか?親であることが一番悪いのか?
多分考えてもしかたがない。姉も、母も亡くなり、父も超高齢になった今、監督の弟にとってもう、その家族はほとんど夢の跡のはず。「どうすればいいのか?」「どうすればよかったか?」なんて監督は監修とは比較にならない密度と速度で巡回的に自問していたはずなんだ。
じゃあなぜ無意味に近い巡回的自問を、わざわざ映像化してまでまだ繰り返そうというのか。僕は、(監督にとって)その問いを問うことが姉の魂への巡礼であり、夢の跡から映像作品として世に送ることは葬送としての意味を持っていると思う。これは、論理ではなく、儀礼の範疇だ。
この映画を観て、精神科医療をどうこうしようなどという気持ちには全くならなかった。これは真の意味で一家族の物語だと解釈している。
呉秀三の「我邦十何万ノ精神病者ハ実ニ此病ヲ受ケタルノ不幸ノ外ニ、此邦ニ生レタルノ不幸ヲ重ヌルモノト云フベシ」という言葉は有名だが、さらに「此の家族」に生まれてしまった不幸を重ねる人も多そうだ。僕は家族の病理というものを信じているし、中井久夫の家族は小宇宙であるという言葉も真だと思っている。
本当に、家族というやつは、手に負えない。