いんぐらむ
更新内容:つれづれなるままに 更新頻度:不定期 対象者 :みなさん
読んだ本を紹介します。
主に精神疾患や理性などについて
自分自身のプレゼンテーションをする時、「われわれはどこから来て、何者で、どこへ行くのか」を明らかにするとよい、と教わったことがある。確かに意識すると筋がよく感じる。ゴーギャンの画題をもじった些かキザな教えだ。 僕の決して長いとはいえない人生には、明瞭な断絶点が存在する。ante-断絶点の僕にとって来し方→行く先ベクトルは予め定義されており、それに沿って自身が何者であるかが遷移していくものだった(これだって後方視的解釈だ)。意味は事前的に規定されていた。 intra-断絶点
いんぐらむ(Twitter: @kazuokiriyama_)です。東京大学理科三類入学、東京大学医学部医学科卒業、現在は救急科で医師をしています。 自宅の本棚の書籍をすべてリストにしました。医学、哲学、生物学、情報科学、仏教、文学、倫理学など比較的多岐にわたっていると思います。みなさまの読書体験の刺激になれば幸いです。 作成中の項目や今後購入、読了した本については随時更新していきます。 書名 著者・編者名 出版社名 ジャンル(独断と偏見) 状態(未読・読了)
人間を物質の集合体と捉えた時でさえ、自分と自分以外のものとの境界線の引き方はひとつではない。 ひとつの素朴な考え方は、皮膚と粘膜をもって境界とするもの。人間は消化管を中心としたドーナツだ。 ふたつめは、自己の感覚を根拠にするもの。靴の底は足の裏と一体化し、傘を持つと腕が伸びる。そんなことを鷲田清一が言っていた気がする。小学生が傘を振り回すのは自己を肥大させたいからだろう。 もうひとつは、からだの免疫系が攻撃しないものが自己で攻撃するものが自己以外。多田富雄という有名な免疫学
先日、友達が死んだ。 突然死んだと言えばそうだし、いずれ来たるべき運命だったと言えばそうなのかもしれない。 人間は、そうでなくても突然死ぬし、理不尽に死んでいく。高度救命救急センターで救急医として働くようになってからまだ短いが、すでにそういう人たちをたくさん見てきた。若いからというのはあまりいいわけにならない。 縁あって、通夜に弔問に行った。うちは両親の家が浄土真宗で南無阿弥陀仏しか唱えていないような弔事ばかりだったから、宗派が違うお坊さんが知らない調声で読経しているのを
ものごころついた時から、ある人形と暮らしていた。 幼いころに祖母が贈ったものらしい。もうあまり見ない日本人形だった。芸者のような顔は真っ白で着物をまとっている。 友人などできない性質であり、両親の帰宅も遅いためいつしか人形に話しかけるようになった。 「今日はさ、体育の先生に怒鳴られちゃった。どんくさいのは体育なんかで治りゃしないのに。」 人形は空を見つめたまま。それでもヒトのかたちをしていればいい。 「下校中さ、排水溝の横にさ、きれいな花があったんだよね。名前なんだけ
明の時代に、陳という梲のあがらない絵描きがいた。幼少期から人付き合いを嫌い、木の枝で砂に落書きばかりしていた。かといって涙で鼠を作るほどの才もなく、往来で旅人の似顔絵や陳腐な風景画を売って糊口を凌いでいた。親とは死に別れ、放埓な兄は十七で出奔してより音沙汰ない。 自分に画の才がないとは思っていない。描けば端金だが買われていく。筆を執れば右腕の一部と化し眼の裏の像を紙に映す。難しいことではない。死んだ親父は根っからの商人で画なぞ描かずに算盤をやれと言っていたが、両親亡き後
多川俊映『唯識とはなにか 唯識三十頌を読む』 いつか三島由紀夫の『豊穣の海』を読みたいと思っている。どうやら唯識という仏教概念を暗に参照しているらしい。 かの南都六宗の一つ・法相宗の本山、興福寺の元貫主が入門書として書いている本書は、唯識思想の大成者・世親の著作を漢訳経典をもとに一つずつ丁寧に解説していくものである。権威性に弱いと言われればそれまでだが、餅は餅屋であることは変わりないだろう。 曰く、我々の五感は「前五識」であり、その下に「第六・意識」がある。ここまでが意
ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』(1~5) 中学1年生の時、家にあったこの小説を読もうとした。背伸びをしたい年頃である。当然この大作を読み切れるはずもなく、第1部の僧庵でのドタバタくらいで頓挫してしまった。 それを社会人になって引っ張り出してなぜ読む気になったのかは覚えていない。フロイトのせいにしておこう。13年前の苦い経験から、外堀を周到に埋めることにした。 まず僕が入門書の入門書としてよく読む100分de名著に『カラマーゾフの兄弟』の回があるため、テキストを購
目が覚めると、世界が変質していた。その直観だけがあった。 昨日は華金で、面白くもない残業をしたあと一人でしこたま呑んで帰り、そのままベッドで気を失った。 <もの>たちは、狭い1Kの部屋に、そのままで横たわっている。 今まで寝ていたベッドには脱ぎ捨てたシャツが紙くずのように転がり、 ローテーブルにはリモコンやら捨てていないチラシやらと一緒にチューハイの空き缶が3本佇んでいる。 こいつらは僕と違って勝手に持ち場に戻ったりしない。 ふむ。昨日飲みすぎたか。一人だというのに情けな
近頃の20代にしては変わった趣味として、Twitterのフォロワーの何人かと文通をしている。 文通といっても頻度は数ヶ月に1回くらい。大体ポストカードを同封するので美術館に行ったあとが多い。気が向いたときに送ろうと思うが面倒くさがりなので先延ばしにしたりする。 手紙の良さは、形式性と現前性だと思っている。インターネットのDMで1秒でメッセージを送ることのできる友人にわざわざ手紙を送る意味はそこにあると思う。 正直、手紙に書いてある文章の内容はどうでもいいと思っている。僕
最近丸善(書店)は精神衛生に良いと気がついた。 正確に言えば、たまにある精神状態のいくつかの悪化パターンのうちのひとつに効果的ということに気がついた。 双極性障害はほぼ治ったと公言しているけど、月に1回くらい心理的な要因では説明できない変な気分の変動がある。 ひとつは抑うつで、何も手がつかなくなって、失踪したくなる。別に死にたくはならないけど。 もうひとつは混合状態のようなもので、焦燥感と言葉と観念が頭に溢れる。僕がゔゔゔ~って呻いてブツブツ言いながら歩き回ってたらだいたい
試作2(当直歌) 少年依医欲披才 宵籠明朝為死灰 他日我応薨伏室 知吾虎也且銜杯 少年 医に依りて才を披(ひら)かんと欲す 宵に籠りて明くる朝に死灰と為る 他日 我応に伏室に薨(し)すべし 知んぬ 我虎なりや 且(しば)らく杯を銜(ふく)まん
試作1 北郊不識過幾週 地漠車如南海舟 乍索斗魁懸島嶽 独看灯火照高楼 北郊 識らず 過ぐること幾週かを 地は漠として 車は南海の舟の如し 乍ち索(さが)す 斗魁の島嶽に懸かるを 独り灯火の高楼を照らすを看るのみ
ぼくは、医師であると同時に、患者だ。 高校まで、真面目一徹で通してきた。ガリ勉くんと言われながらも、いい大学に入ることができた。大学に入ってからも、今までの自分を信じて、真面目に全部頑張ろうとした。 大学は、全部真面目にやるには、広すぎた。徐々に息が切れ、力尽きた。人間が怖くなった。形のない悪意が視えるようになった。なにもできない期間と、なにかせずにはいられない期間が交互に来た。 そのころ、SNS経由で4歳上のお姉さんと仲良くなった。地理的にも離れたところに住んでいた。
中島敦『山月記』はあまりにも有名ですが、作中で李徴が漢詩を詠む場面があります。 これを題材に漢詩としての形式を確認してみましょう。 押韻漢詩は基本的に偶数句末で押韻します。 この詩では「逃」「高」「豪」「嘷」です。日本語での読み方が似ていればよいというものではなく、ほぼ漢字は「韻目」という106種類のグループに分けられており、基本的に同じグループ内の漢字でしか韻を踏めません。 上のページの左上の欄に「逃」を入れて検索すると次のような結果になります。 「逃」は「平声」(
古代編からの続きです。 引き続き下記の書籍の第3章を参考にしながら話していきましょう。 神学モデルの台頭古代編では、ギリシャとローマでの体液説に基づく狂気観までみてきました。ローマ帝国の衰退とともに、その医学的な価値観は徐々に薄れ、代わりに神学的な狂気に移行していきます。