マフラーは要るのか要らないのか真剣に考えてみた
「冬」から連想されるもの。クリスマス、雪、コート、スノボ、炬燵、イルミネーション。30秒の間に思いつく限り列挙してみたが、マフラーが候補に挙がることはなかった。
だがこれは、決して不思議なことではない。所詮、マフラーなんてその程度のものなのだ。1年通して「冬」にしか出番ないくせに、存在感の薄い可哀想なやつなのだ。
自分も23年間生きてきて「マフラーなんて要らない」と思ってた派閥だったし、「自分のお金で買う」なんて思ったことは一度もなかった。去年の11月までは…。
初めてマフラーを買ってしまった2021年、冬
2021年12月、初めてマフラーを買った。というよりは、「買ってしまった」と表現するのが正しいのかもしれない。決して誰かに買わされたわけでもないのに、なぜか敗北感に苛まれた。マフラーの存在価値を認めていなかったためだ。
だが、買ってしまった。
マフラーを手にしてからの日常
マフラーを買ってしまった日から、自分の中の何かが狂い始めた。そう、あれほどマフラーの存在を疎かにしていたはずが、気づけばマフラーと二人三脚で日常を過ごすようになっていたのだ。
マフラーを巻けば、驚くほどに首が暖かい。首ってやつは太いし丈夫そうに見えがちだけど、意外と脆いやつなのだ。見た目頑丈そうで実は寒さに敏感だなんて、狂おしいほどにギャップ萌えじゃあないか。そんなやつを温めない理由なんて、どこにも見つからない。
「首を守ってあげなきゃ」といった使命感的なものが、マフラーなしでは過ごせなくなってしまった要因なのかもしれない。
マフラーは必需品ではないがあると嬉しい
で、だ。結局のところマフラーは要るのか要らないのか問題であるが、答えは「あると嬉しい存在」であると行き着いた。
結局マフラーは必需品ではないし、首が冷たくなっても人は死なない。さすがに足先が冷えるとまずいので、靴下は必需品にあたるのだが。そんなわけで、マフラーは靴下のような輝く存在にはなれないのが残酷な現実なのだけれど。
とはいえ、マフラーは「あると嬉しい」のが事実。必需品ではないけど、あると嬉しい。それくらいの温度感が、マフラーのような曖昧な存在にはちょうど良いのではないだろうか。