海を渡った古伊万里……ロースドルフ城の悲劇
3年前、港区の大倉集古館を皮切りに
各地で
「海を渡った古伊万里~ウィーン ロースドルフ城の悲劇」展が開かれました。
江戸時代の初期、肥前で作られた磁器は、輸出していた港の名前をとって伊万里焼と呼ばれました。
朝鮮半島から呼び入れた陶工が優秀で、伊万里焼の人気を高めたと思われます。
ヨーロッパでは、単に「イマリ」と呼ばれていたようです。
ヨーロッパの王侯貴族は「イマリ」の美しさに魅了されました。
イマリを収集することは、貴族の嗜みとして また、富の象徴としてもこぞって美しいイマリを買い集めました。
貴族たちの間では、「イマリは金よりも価値がある!」と言われていました。
船乗りや船主も伊万里の港からヨーロッパまで無事に運べば、船一隻分のイマリで一財産を築けたのではないかと思います。
そのようにしてイマリを買い集めていた貴族の一人に、ウィーン近郊のロースドルフ城の城主がいました。
買い集めた美しいイマリを自分の城に飾って鑑賞していました。
しかし、第二次大戦が終結した直後
ロシア兵に城を占領され、貴重なイマリのコレクションの大半を破壊されてしまいました。
城の主は破壊された陶磁器の破片を捨てずに、破壊されたままキレイに並べて
美術館としても解放していたそうです。
そして、そのままの状態で今日に至ったのです。
そのような中で、現在の城主夫妻が来日し、茶会で保科眞智子さんと出会いました。
そして破壊された古伊万里について話をしたようです。
保科さんは、旧子爵 保科家で生まれ育ちました。
保科さんは、その痛ましい状態の古伊万里について聞いて心が痛んだことでしょう。
ヨーロッパには、陶磁器を修復する技術はありませんでしたが、日本には修復をする技術もあります。
色々と手を尽くし、修復する技術者や
古伊万里に詳しい大学教授など、専門の人たちを組織してウィーンのロースドルフ城へと向かいました。
古伊万里は、数百年の時を経てもなお色あせず、元の輝きを保っています。
中国にも景徳鎮窯がありますが
伊万里焼がヨーロッパの貴族たちから引く手あまたな様子を知り
チャイニーズ・イマリと呼ばれたイマリの写しを作りました。
そして、ヨーロッパへと輸出されました。
ヨーロッパでもイマリと同じものを作れないかと窯を作り、王室からも「イマリを作れ!」とゲキが飛びました。
マイセン窯やアウガルテン窯などがイマリを真似て「伊万里写し」を作りました。
ロースドルフ城の磁器の破片を修復する過程で、欧州の窯で製作されたイマリと見紛うばかりの作品も存在することが調査でわかってきました。
これら欧州の窯では、のちに「ウィーンの薔薇」など、有名になった磁器も作られるようになりました。
「ウィーンの薔薇」は
ハプスブルク家の御用達で、1918年までハプスブルク家の門を出ることはありませんでした。
世が世ならハプスブルグ家の中でのみ使用することが許されていました。
とてもよく似たアウガルテンの
ウィンナローズも作られました。