「闇の子供たち」(2008)人間の欲望の果てを考える。
こんにちわ。Saraです。
前々から、友達に薦められていた映画「闇の子供たち」を鑑賞してみた。友達は「世界に起きている現実を知るためにも、一度はこの映画を観たほうがいい。」と、神妙な面持ちで語ってくれた。
貧しい農村部の親の借金のカタとして、目的に応じて売買される子どもたち。大人たちの歪み切った欲望の先は、子どもの人権や権利なんて最初からないと設定されている世界。違法な臓器提供の犠牲となる子どもいれば、性的道具とされ、使い物にならなくなれば、いとも簡単にゴミ置き場に袋詰めにされ運ばれていく子もいる。そんな深い闇のリアルに光を当てたストーリーだ。
この映画の阪本順治監督は、インタビューで次のように、語っている。
もう映画監督としての自分を絶たれてもかまわないといった覚悟で、私たちにこの映画を作り、届けてくれた。
人間が人間を売買する。その事実から逃れているのは、衣食住がある程度国民に行き渡っていて、法や教育によって、秩序を形成している国に限定されることなのだろうと私は思う。たとえ恵まれている条件であっても、人間は表層部で取り繕い、闇取引では何をしているかなんて、誰も知る由がない。
私が歴史上の人身売買で浮かんでくるのは、古代ローマ時代の奴隷や航海時代の黒人奴隷・日本においては、吉原遊郭の遊女たちだ。それは、何万年という人類史からしたら、氷山のほんの一角にしか過ぎないのだろう。世界最古の女性の職業自体が、売春であるのだから。
人には人権がある。権利がある。そんなキレイな言葉は、凄惨な貧困に疲労困憊している人々や強欲な人間たちの前では、益体がなく、機能なんてしてくれない。「衣食足りて礼節を知る」という言葉があるが、人間が人間らしくいるためには、衣食住が足りていることは最低条件と言えるだろう。でもそれが満たしきれている国や状態であっても、今度は何かしらの欲が人間を支配するようになれば、人身御供を生み出してしまうのだ。この映画では、人間が踏み外した欲の酷薄なリアルを伝えてくれている。
特に私が、心に突き刺さったのは主人公の南部という日本人の心の闇だ。彼は生きたまま臓器移植している闇取引を暴き、世間に知らせることで、正義を貫こうとする一見「善人」役である。ところが、ラストに近づいてくると、彼は小児性愛者であり、過去にタイの男の子を買ったことがあることが露になっていく。命は取るような真似はしてないにせよ、売春と言う形で、小さな脆弱な存在を自分の性のはけ口にしてしまった事実に耐えられなくなり、心のバランスの天秤が破壊され、彼の悲痛な嘶きのような叫びがスクリーンを覆い尽くす。
彼が自殺した後先で、彼の部屋の一角には、小児性愛者の犯罪例のスナップを幾枚も貼り付けられていて、そのセンターに自分が映し出されるように鏡が備え付けられているのを、知人たちが発見する。自分の欲望に対して、常に自戒し、少しの油断も許されないのだと彼は、自分に言い聞かせていたのだろう。このシーンは、人間が密かに抱えている欲望そのものが、罪になってしまうこともあるのだと私に肉薄してきた。
人間として生まれたのなら、誰しも何らかの欲に苛まれない人はいないと思う。本来、私たちが伝えられてきた人間の三大欲は、人間が肉体を維持し、遺伝子を残すためにプログラミングされている、いわば初期設定のようなモノだとも感じる。
原始的にみれば「生命を守り、繋いでいくためにあるもの」という設定だったはずなのに、文明の進化の果てに、多種多様すぎる価値観が生まれ、何らかの欲望を掻き立ててくる広告刺激物に翻弄されている。「こんな世界では、人間がどんな欲望に目覚めても可笑しくない。どんな性癖を持っていたとしても、俺は驚かない。」と私の廻りで言っている人もいた。
ここまで発展してしまった物質世界に対して、誰も止めることはできないし、この時代に生まれてきてしまったことは変えられないのなら、私はせめて自分の欲で誰かを傷つけないように、自分に問いかけていきたい。
人間の暴走する欲望の成れの果てを、この映画は教えてくれた。欲に向き合う心がなければ、自分の中のダークサイドは深くなるだけだろう。湧いてくる欲と相対して、私自身で受け止めきれるまで、私は自分と対話していこう。
欲はけっして欲のままなんかじゃない。打ち勝てたときに、はじめて人は一つづつ、愛を覚えていくと私は信じている。