「落語家の精神」
落語で江戸文化を知る事が出来る
のか。または、江戸文化で落語は出
来ているのか。
私の結論はどちらでもない。なぜ
なら、落語の世界は落語の世界だけ
のもので、江戸文化に似ているが、
江戸文化のパラレルワールドのよう
なもの。
それは江戸でも無く、現代社会で
も無い。
では、落語の世界は何処にあるの
か。話の中か。
いいや、それは落語の話の中にも
無い。なぜなら、話は只の筋書きで
有り、話の中の言葉は単なる記号に
過ぎないからである。
では何処か。
それは落語の聴き手の頭の中にあ
る。
もちろん、語っている落語家の中
にも落語の世界はあるが、それは同
じではない。
そこで落語家は様子を伺う。一方
で、聴き手は落語家の細かな口調や
細かな動きを知ろうとする。
落語を聴くとき、落語家の誘導に
沿って自らの記憶を頼りに落語の世
界を想起する。
したがって、落語家の心情に沿っ
て聴き手のそれが呼び起こされるこ
とになる。
そうやって、落語家と聴き手との
お互いの歩み寄りが更に密度の濃
い、解像度の高い落語の世界を作り
上げていく。
だから、落語の世界で作られる心
の動きは両者が望むものになる。
それは一人で考えるのとは異なり、
互いに干渉する中で作られるため、
お互いが最も望ましいと思うものに
なるのである。
こうして出来た落語の世界は一緒
に作り上げた世界である。
だからこそ、当然のことである
が、現実のそれとはかけ離れてい
る。
落語を聴いて良い落語だなと心地
よく感じる時というのは、まさに
一体になった時である。
落語の多くがバカバカしく快活な
話や、心温まる人情に触れる話が多
いのは、一体となれる心地よい心情
を呼び起こすためである。
落語の世界が共に望む心地いいそ
れであることは、言いかえれば、落
語のそれは一面で理想世界である。
だから、江戸が舞台でも、落語は
現実ではなく、想像される理想の江
戸文化である。
いわゆる文化は精神の発露であろ
う。
理想を望んで共感することが落語
の精神であるのなら、それは温かな
理想を目指す精神に違いない。
ならば、自ずと落語家の有り様も
方向性も温かな理想に沿うものであ
るはずであり、仮にそうでなけれ
ば、もはや落語家としては疑問であ
る。